生命あるものは全ていわゆる死を迎えます。人間に限らず、万物は生まれた瞬間から死に向かって歩み始めるのです。そしていわゆる死を迎えた後、万物は崩壊し、新たなものを作り出す要素の一部となるのです。
宇宙のエネルギーと質量の総量は恐らく、ビッグバン以降、同じです。恒星が寿命を迎えた時、順に惑星を飲み込み、最後は超新星となり大爆発をおこします。そして宇宙空間に様々な原子をまき散らすのです。時を経て、それらは新たな星々の構成要素となってゆきます。万物は、大なり小なり、その意味で生と死を繰り返しているのです。
散りゆく桜に大和心を感ずるのは、大地に落ちた花びらが、新たないのちの元になるからです。
万物には生も死もなく、すべては「むすび」の顕(あらわ)れなのです。そこに大いなる「和(和魂)」の霊(くし)びなる大自然の働きをみて、いのち(神)の輝きを感得する、それを素直に受け止めることができる心を大和心というのです。桜は、大和心の象徴と言われていますが、本当は大自然の生きとし生けるものなら何でもいいのです。
冒頭の歌は、宣長の六十一歳自画自賛像に賛として書かれています。賛の全文をみると「これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月にてづからうつしたるおのがゝたなり、筆のついでに、しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」とあります。
この歌はあくまでも宣長の大和心に対する心持を詠っただけなので、家集『鈴屋集』にも載せられていません。歌が単独で読まれ、誤解を招くことを避けたかったのだと思います。
