「これから瞑想の行為にとりかかろうと試みることは瞑想に入ることではない。それはいざ善良たろうと志しても、おのずからなる善性が花開くことがないのと同じである。素直な心についても、養おうとすればもはやそれは消えてしまう。
瞑想は、ふと窓を開け放てば吹き入る微風のようなものである。それゆえ、意図的に窓を開けておこうとしたり、招き寄せようと試みれば、決して姿を現わすことはない。(中略) 愛と同様、瞑想を追い求めることはできない。』(「クリシュナムルティの瞑想録」)
ところで、聖書を中国で翻訳する際に、GODを神と訳すか、上帝と訳すかで、アメリカとヨーロッパの宣教師達が大論争しましたが、結局折り合いがつかず両方の訳語が採用されたそうです。
「ゴッドは神か上帝か」(岩波現代文庫)によれば、中国には元々キリスト教のGODの概念が無かったため、それに相当する言葉も無かったそうです。
日本においてはアメリカ側の宣教師達が押す「神」という訳語が採用されたために、古代からの「神」の概念があやふやになってしまった感があります。
古神道では、神はキリスト教のような造物主ではなく、造化の神として定義づけられています。つまり古神道において神とは大自然そのものであり、神の働きとは自然法則に他なりません。それゆえ、神との合一・融合を果たすには、無と、作為なき受容が足がかりとなります。まさにヘッセの「シッダールタ」や冒頭のクリシュナムルティの説く世界です。つまり「うけいれること」が何にもまして重要な要件になるのです。
