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大和心

第147回 夕べに死すとも可なり―2

著者:小山一夫 / 公開日:2022-10-11

掲載準備版・未公開。公開日は元ブログの投稿日です。

日本の注釈者も、たとえば清末の「論語正義」をメインに採用する等々、個人の好みや思想に従ってどの考え方を採用するかは人それぞれです。

しかしながら、この「朝聞道、夕死可矣」は、古注と新注で、全く異なる解釈になっています。

前述の大辞林的な解釈は新注(南宋の朱熹)によるもので、比較的新しいものなのです。ところがそれ以前、つまり魏の何晏によれば、全く別の注釈になります。

この何晏の注釈は、現在全存する最古のものであり、中国では唐代まで、日本でも奈良時代に持ち込まれてから鎌倉末期まで、論語解釈の基本でした。

同じ文章がここまで別の解釈になるのか!と驚くほどですが、私としては、魏の何晏に軍配を上げたいと思います。 この言葉を孔子はいつ、どういう状況で、どのような気持で語ったのか?それが私の判断の根拠だからです。

魏の何晏の解釈ならば、「朝」を「あした」と読んでも全く違和感がありません。

そして、この「朝」がいつの朝なのか?きっと、そこまで深く想いを馳せることになります。

この短い言葉に孔子が如何なる思いを込めたのか、彼の心情を察することなく、その真意を知ることは出来ません。それが孔子(論語)の魂に触れるということなのでしょう。