「副島種臣伯」みすず書房によると副島翁の談として
『賣奴船マリヤルズ號處分は世界列國の是認する所となつた。即ち日本の裁判が全勝となつたのでも列国も之に鑑み、就中支那賣奴の巣窟たる澳門に於ても今後は賣奴を禁止するに定められた旨を澳門鎮毫長官から日本へ通知して来た。そして最初、私の同船處分に着手した際には、異議の忠告書を外務省に差出した佛國公使並に米國公使は、共に自らその誤つたことを悔ゆるに至り、佛國公使の如きは、その提出した意見書を取消してくれといつて私に前の態度を陳謝した程である。
又此の處分の影響として、英国に於ては向後凡そ外国船の賣奴を救解處分するには日本のマリヤルズ裁判の法を以て英國の法とすべしといふやうな訓令を在東洋の英國官憲に通知した。私もその謄寫を貰つた。これは些細な事だが、外國に範を示すことヽなつたのである。それから米國公使デ・ロングも、此の事件から無類の日本贔屓となつた。當時公使は布哇(はわい)公使をも乗任してるたが、先づ小笠原島を日本の領土と認め、更に布哇をも日本に合併させるやうに藎力しようといつてるたが、その後私が辞職し、氏も本國へ婦つたのでそのまゝになつた。云々』
『小笠原島の所属
先生の在任中、小笠原島を琉球藩の所属たらしめよと主張したことあり、また之を海軍の所管として外国の凱観を絶つべしと正院に上書したことがある。小笠原島はその名の示す如く小笠原貞頼が文禄三年(一五九四年)之を発見したのである。しかもペルリが来朝した際、小笠原島を以で米領と宣言し、英國は之を自國領だと争つたりしたので幕府も捨てヽは置けず、水野忠徳をして日本の領土なるを明かにせしめたけれど、それなりになりし明治政府でも小笠原島までは考の及ぶものなく、先生の外務卿となるに及び。米国公使デロングは、我領土として治めることに同意した。』(同書)