
明治元年の五箇条の御誓文と神仏判然令、翌年の神祇官の復活、3年の大教宣布の詔、4年の大嘗祭の復活、と神道重視の流れが出来つつありましたが、現実の体制としては、4年に神祇官から神祇省への降格、5年の神祇省廃止と教部省の設立へと神道界の立場は弱体化してゆきます。
仏教界の反撃もその一因でしたが、なにより神道界の行政能力のなさと、内部論争も問題でした。それは国学の2代学派とでもいうべき宣長派と篤胤派の理論的な対立に起因します。
明治13年、神道事務局の神殿の御祭神をいずれの神にするかが大論争となり、神道界を二分することになります。田中頼庸等の伊勢派が天照大神を祀ることを、そして千家尊福等の出雲派が大国主神を祀ることを主張したからです。これは天津神と国津神のどちらを上位とするかという教義上の選択でもありました。
お互いが譲ることはなく、最終的に明治天皇の勅裁を仰ごうということになりましたが、天皇は伊勢派の主張を受け入れました。しかしながらその決断は、神道の国教化をも諦めることになります。