
敗戦後、1945年12月15日にGHQ宗教課は「神道指令」を発し、神道に対して弾圧を加えました。それは日本の満州進出に始まる中国への侵攻、八紘一宇思想に基づくアジア諸国への南進が、神道思想によるものだと判断されたからです。しかし実際は、満州事変も支那事変も、そして大東亜戦争も神道思想が主たる原因ではありませんでした。
政府と軍部にいい様に利用されたのは事実だとしても、戦争の思想的背景と見なされた神道側からみれば、GHQの判断は「濡れ衣」だと思ったことでしょう。
そもそも日本書紀には「八紘一宇」なる言葉は出てきません。
これは日蓮宗から還俗した元僧侶・田中智学が作った造語だからです。
柳条湖事件や満洲事変を起こした首謀者・石原莞爾は日蓮主義に深く傾倒し、田中智学の設立した國柱会の中心的メンバーの一人と言ってもいい軍人でした。ですが、彼は満州以外に中国の地へ侵攻するのを望んでいませんでした。
この八紘一宇という言葉が、本来の日本書紀の原文の精神を離れ、さらに田中智学の思惑をも超えて、軍産官政の複合体に悪用されてゆくのを彼らも苦々しく思っていたことでしょう。
「上則答乾霊授国之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎」日本書紀巻第三・神武天皇即位前紀」
書下し文では「上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん事、亦可からずや」。
つまり、「上則答乾霊授国之徳、下則弘皇孫養正之心」を前提として、「然る後」に「兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎」と続くわけです。
橿原での建国後、神武天皇は周囲の国を侵略したわけではありません。婚姻により家族になったことを「しろしめす」ことで平和な世界を築いてゆきました。