以前に書いた手記をここにアップしたいと思います。
古神道の視点から、祓祝詞を考察します。
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『回曰く「敢えて心の斎みを問う」と。
仲尼曰く「若は志を一にせよ。之を聴くに耳を以てする無くして、之を聴くに心を以てせよ。之を聴くに心を以てする無くして之を聴くに気を以てせよ。聴くことは耳に止まり、心は符るに止まる。気なるものは虚しくして物を待るるものなり。唯だ道は虚しきに集まる。虚しきこそ心の斎みなれ。」』(「荘子内編」朝日新聞社)
潔斎という言葉がある。
「神仏に仕えるため、酒肉を避けけがれた物に触れず、心身を清らかにしておくこと。ものいみ」。
大辞林によればこのような意味になるが、仲尼(孔子)に「斎(ものい)みせよ」と言われた回(顔回)も同様に解釈をし、もとより酒肉を避けている旨を孔子に告げる。
「回の家は貧し。惟ら酒を飲まず、葷きものを茹わざること数月なり」。これに対して孔子は次のように応える。「是れ祭祀の斎みにして、心の斎みには非らざるなり」と。
そして冒頭のやり取りに続くわけだが、30年前にこの「荘子」内編を読んだ時、私は、仏典のサンユッタニカーヤを思い出した。
「水を必要としない沐浴とは、苦行と清らかな行いとである」(「神々との対話」岩波文庫、中村元訳)
古来、世界各地でいわゆる禊が潔斎の重要なツールとして行なわれてきた。
この「禊」だが、大辞林では次のように説明されている。
「海や川の水で体を清め、罪や穢れを洗い流すこと」
肉体と心に関する戒律に従う事にもそれなりに意味があるだろう。
だが、それはまだ顕のレベルだと思う。それでは何が足りないのだろうか。
そもそも穢れの考え方だが、大別すると顕(有形的)と幽(無形的)の2種類があり、これらは質的に全く異なるものだ。そして祓い(浄化)が難しいのは、明らかに後者であり、単に水をかぶる事などではとても解決できない。だから荘子も心斎の重要性を単なる心の持ち方というレベルではなく、もっと深いレベルで語っているわけだ。