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大和心

第363回 祓祝詞を考える―8(2/2)

著者:小山一夫 / 公開日:2024-02-24

掲載準備版・未公開。公開日は元ブログの投稿日です。

『「隠身也」は、「カクレミニマセリ」と訓読みする。

肉眼で見ることができない存在が即ち神である。(神はカクレミの略語であることは上述した通りである)それ故に、造化の神々をはじめとして、天神地祇八百万の神をカミと称する際は皆この意味である。人は互いにその霊魂を見ることはできない。その言動を観察して五魂の活動を知ることができるのみであるのも、霊魂は造化の神から分与して頂いた各自の神であって、幽体であるからである。(霊魂の由来を講究するというのは、神界の教えにおいて、最も重要な学科であるので、改めて詳細に論じる。)古い訓読みに、この「隠身也」を『ミミヲカクシタマヒキ」と読み、いつの間にかこれが説として成り立っているのは、甚だしい誤謬であると 言うことができる。』(西原氏による現代語訳)

「隱身也」を、「身を隠したまひき」と訓むか、「隠れ身にませり」と訓むかによって全く異なった意味になる。前者は顕から幽へ移動したことになり、後者では元より幽の存在であるということ。

神とは「肉眼ノ見ルコト能ハザル是即神ナリ」なので、「隱身也」の訓は後者になるわけだ。

つまり祓祝詞は、幽の世界に坐します「神」に通じなければ意味をなさないということだ。