以前に書いた手記をここにアップしたいと思います。
古神道の視点から、祓祝詞を考察します。
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「祓へ給ひ清め給へと白すことを聞こし召せと恐み恐みも白す」
そして祝詞の最後の段で、祓戸の神々に祓い清めをお願いすることによって祓って戴こうという文面になっている。
「大祓祝詞の心」(岡田米夫著)によれば
「大祓詞に認められた祖神の心を心として実行するならば、祖神は必ずや、その人々の罪を許し、祓い清めてくれるという信仰で貫かれています」。
「あなたを幸せにする大祓詞」小野善一郎著には
「祓えとは何か。なぜ祓えをするのか。結論から先に申し上げるならば、それはわが国の神々の実在と、その神々に私たちはつながっており、私たちの本性もまた神性のものという確信から行われるのです。この信仰が祓えの神学の根本にあるものです。この信仰がなければ、祓えは即座に「いのち」を失い、形骸化した行事のみとなります」とある。
両書では、祓えるかどうかは、信仰があるかどうかによる、と説明している。信じる者は救われる、という論法だ。しかし、それでは神道は、信仰を求める他の宗教と変わらなくなってしまう。信仰とは、神がいると信ずることだ。それはつまり神が存在するという確信がないという事ではないだろうか。いるかいないかわからないから、「いると信じる」必要があるわけだ。
果たしてそれでいいのだろうか。神道とは、巷間いわれる處の宗教ではない。だから信じるかどうかではなく、神に通ずるかどうかが問われるべきだろう。
神を実感できず、その存在を確信できないで、神事を行うなどそれこそ畏れ多いと思う。尤も幽斎なき顕斎ならば、巷間のいち宗教の神事としてあっていいとは思うが。
<参考>
顕斎の神事の際には、降神の儀により大麻を神籬と化した後、それを以て祓いの神事を行う。祓祝詞の奏上では言葉を発するが、大麻を左右左に振る際は無言である。そして祓いがなされた後、昇神の儀により神上り、祓いの神事が終了する。(降神・昇神の儀では祝詞奏上あり)
幽斎においては、大麻の代わりに神主が神籬となる。そしてその神籬を通して神の祓いが行われる。この間は祝詞の奏上など一切なく、終始静寂に包まれている。