天保十年(一八三九)満十七才。皇史(日本紀)を読み帰神の神法廃絶したるを慨歎して志を立つ。(難古事記)藩を出でて武者修業して京に上る。水戸藩の会沢正志の英名を聞き東下して就きて学ぶ。約三年と云う。和漢の学をはじめ哲学科学の基礎知識この間に成るという。又この間平田篤胤の家にも出入せしとも云う。又天保十四年の条に、京都藩邸にあり適々狐憑の少女に逢い憑霊現象を実見して霊学研究の志を竪むと伝う。と記しています。この年九月、平田篤胤が歿しているので、先生が江戸で平田家に出入したのは篤胤晩年のことであります。
この京都の事は伝説として語りつがれて居るけれども事実である点は高窪良誠談話によって信憑せられるのであります。先生は之を契機として一切世俗の名聞を断って霊学研究の苦難の道に就かれたのであって、この後十余年全くその消息は不明なのであります。その著「難古事記」に記す処に依ると「三十五才にして神懸に三十六法あることを覚悟る」とあって、その年は満年三十四才即ち安政三年(一八五六)に当るのであるから、天保十四年より十四年の歳月を経ています。そして「十八才皇史を拝読し此の神法の今時に廃絶したるを慨歎し」て志を立てた時より実に十八年に亘るものであって、会沢正志の門に於ける刻苦勉励も、その後「岩窟に求め草庵に尋ね」ての苦難の修業も凡てこの準備期間ということになるのでありましょう。そして「夫れより幽冥に正し現事に徴し、古事記日本紀の真奥を知り、古先達の説々悉く皆謬解たるを知り弁へたりき」となるのであります。全集所収の「古事記神理解」と「難古事記」は先人のこの謬解を正すために書かれたものであることを知るのであります。