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大和心

第413回 本田霊学の継承-3(1/2)

著者:小山一夫 / 公開日:2024-06-26

掲載準備版・未公開。公開日は元ブログの投稿日です。

「本田親徳研究」(鈴木重道氏)を参考に本田霊学の継承について御紹介したいと思う。解説については自説であり、本田霊学としての公式見解ではない。

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薩摩藩では元々国学が盛んではなかった。

国内屈指の国学者であった本居宣長の元へも、薩摩藩からはひとりも入門していない。国学の存在は知っていても、薩摩では公に学べないような状況にあったのだろうか。

その陰で、島津久光(1817-1887)が「古史伝」を所望するなど、徐々に国学を重視するようになり、大久保利通らも国学思想を基に自分たちの思想を久光に伝えようとしていたという。そのような背景から、平田篤胤の元に薩摩藩士が集うようになる。薩摩藩では徐々に、平田学派が盛んになり、古学としての神道思想が色濃くなってゆく。これがその後の神仏分離(神仏判然令1868)を加速させる背景となる。

廃仏毀釈の激しかったのは、旧津和野藩、旧薩摩藩、天領隠岐などであった。特に激しかったのが旧薩摩藩であり、その結果、鹿児島県には国宝や重要文化財の仏像や寺院建築は一つも残っていない。例えば会津藩では初代藩主・保科正之自身が神道家であったことから、歴代藩主の葬儀は神式で行われた。一方、薩摩藩では江戸時代後期まで藩主一族の葬儀は仏式だったが、その流れを変えたのは島津斉彬(1809-1858)の曽祖父重豪(1745-1833)である。彼は仏教を捨てて神道に傾倒した。だが鹿児島県には、廃仏毀釈の起こりやすい環境が別にあった。それは寺請制度(てらうけ)がなかったこと、外城士制度があったこと、キリスト教と共に一向宗も禁止されていたこと等が挙げられる。つまり仏教もある意味監視対象であったわけだ。