幕府や他藩はキリスト教対策で寺院を行政機関に組み入れ、檀家制度をとりながら、農村部では通行手形などの発行までしていた。それだけ民衆の中に仏教が浸透していたことになる。しかし薩摩藩ではそのような仕組みがなかったことで、行政が寺院に依存する部分もなかったわけだ。それが神仏分離政策を加速させ、過度な廃仏毀釈まで起きた背景になっている。
国学隆盛前の薩摩藩では、本田翁(1822-1889)は宣長らの国学を学ぶ機会が得られず、1839年、翁17歳の時に薩摩を離れることになる。
『皇史を読み帰神の神法廃絶したるを慨歎し志を立つ。(難古事記)藩を出でて武者修業して京に上る。水戸藩の会沢正志の英名を聞き東下して就きて学ぶ。約三年という。和漢の学をはじめ哲学科学の基礎知識この間に成る。又この間平田篤胤の家に出入せしともいう。』(『本田親徳研究』)
本田翁は21歳(1843年)の時に京都藩邸にいたが、その頃に霊学研究の志を堅めたという。同年に平田篤胤が死去しているが、その前後に平田学派に触れる機会があったのだろう。
神懸に三十六法あるのを悟られたのが1856年(翁34歳)。1863年には郷里にいて長男誕生の記録がある。
島津斉彬(1809-1858)によって藩校造士館の改革が行われ、廃藩置県後に国学局が設立されるなど、薩摩でも様々な経緯を経て国学が推奨されることになる。その頃に翁が薩摩にいたかどうかは定かではないが、藩がそのような方向へ向かう変革期に薩摩にいた可能性はある。蛇足だが、石峯神社は現在の福岡県北九州市の神社だと思われる。