「本田親徳研究」(鈴木重道氏)を参考に本田霊学の継承について御紹介したいと思う。解説については自説であり、本田霊学としての公式見解ではない。


**********************************
西郷については、このようなやり取りの記録も残っている。
『先生は西郷南洲と餘程親密に交際なすつたと云ふ話でございますが、いつ頃御交際なさいましたか。』という質問に対して翁は次のように答えている。
『初まりは説の合ふこともあり、合はぬことよあつたゞらうがね。あの人の死に至る時、拙者に遺言をされたで。死ぬ三日前に西郷に仕へて居つた、薩摩の岡部と云ふ者に、「最早や自分は討死をするから出で行け」と云ふて、夫れを出さるゝ時に、「副島が支那から歸つて逢へたならば、謹んで死するなかれ」と言はれた。其趣意を考へるに重もに荒いことを最早するなと言はれたと見ゆるて。それが最後の遺言であつた。其岡部と鈴木某と2人連れで遺言を通じた。是れは全く征韓の頃から外の朋友を離れ、拙者とは時々手紙の往復もし、それも人の往来位で、薩摩人の往来で、委託して物言ふたことも澤山ある。其頃から其遺言を拙者の爲めに發するに至られたと見ゆるて。
凡そ役人と云ふ者はどんな朋友でも、説の合ふ時と合はぬ時とあるものだ。其時は矢張争論をする。尤も征韓論までは拙者は大久保が1番懇意にあつたやうにある。唯征韓の一條だけが、彼と見込の違つたと云ふもので。そこで、役人の懇意は、或は討論、或異論と云ふことは往々ある。ある度毎に見解の衝突は云ふまでもない話だ。』(「副島種臣全集」第2巻)