〔註二〕高窪良誠は両者同行を語ったが鎮魂力云々は否定していた。全集所載書簡三七八頁。 』
(『本田親徳研究』)
『侍講に就任した副島は、火曜日には天皇、木曜日には皇后にと週二日の進講を開始した。明治6年政変後は決して就官に応じようとしなかった副島も、「天皇の師」には心が動いたのだろう。君徳輔導に意欲的であった副島は、定められた進講日だけでなく、日々参内して天皇の側に控えていたいと申し出た。結果的には受け入れられなかったが、こうした副島の言動に伊藤博文は不安を抱き、岩倉に「将来の処実に杞憂を堪へず」と伝えている。(「伊藤博文関係文書」)』(「副島種臣」佐賀城本丸歴史館)
筆者の想像だが、当時副島翁は度々の就官を固辞し、本田霊学の修行と研究をしていたのだと想う。「真道問対」が明治16年であることを考えると、西南の役以前に既にかなりのレベルにあった副島翁だが、帰国後さらに研鑽を積んでいたのだろう。
その後、黒田清隆と伊藤博文が副島侍講排斥論を主張したとき、明治天皇は
『副島は、維新以来西郷大久保木戸伊知地同等の人物、当時天下人望のある処なるを以て挙げて之を用ゆ』(同書)と言って、黒田らの三度にわたる上奏を退けている。天皇が如何に副島翁を信頼していたかがよくわかる。