「本田親徳研究」(鈴木重道氏)を参考に本田霊学の継承について御紹介したいと思う。解説については自説であり、本田霊学としての公式見解ではない。


**********************************
『(ロ)真道問対と蒼海窓問答
已に述べた通り「真道問対」は明治十六年十月の成稿であり「蒼海窓問答」は仝三十一年十二月の抄録でありますから、その間十五年の歳月があって、副島の年齢で云えば満五十五才と七十才ということになります。五十五才と云えば学問は和漢洋(殊に漢学〉に亘って、識見も卓抜であり、一等侍講として天皇の信任特に厚かった時でありますが、唯日本国有の神霊学に於ては不明であったと思われます。副島がこの点について、本田親徳に師事してその教を受けたことは非常に意義深い事であって、本田霊学の思想は必ずや天皇に自然に上聞された事と思われるのであります。私は特にこの霊学が之を樹立した本田一個人のものでなく、彼が皇法(皇学)と尊び呼んでいたことを注目したいと考えます。これはその道に深く参じた者の知る処でありますが、千年に一人選ばれて出現するという霊能者を指導して真の皇学を樹立せしめるのは全く神意に依るものであることを申して置き度いと思います。
〔註三〕本田親徳全集三五九頁所載鈴木広道に対する伝授書に皇法とあり、長沢雄楯これを皇法或は皇学と呼んで居った。(佐藤卿彦談)』 (『本田親徳研究』)
「真道問答」(明治十六年十月)、「「蒼海窓問答」(明治三十一年十二月)、「滄海窓閑話」(明治三十一年十二月)、「滄海窓雜話」(明治三十二年三月)と副島翁は続けて出されている。明治38年(1905)に76歳で帰幽されているので、最後に書かれた滄海窓雜話は70歳の時になる。その二年間の間にも、翁は霊学に対する研究をかなり深められている。