さて當神社の衰た始めは、中世藤原氏の、天下の政権を、襢にしてより、藤原氏に縁故ある者は、小祀も皆官幣に列し、縁無き者は、大社も猶廃すと、斎部廣成といふ人、の大同二年に、朝廷に、上られた書中にある如く、當御社は藤原家に縁故なき故、官幣に列せず、延喜式其他に見へざるは、全くこれに因るのである、然れども弘法大師の山籠城して、手づから、弁才天の像を彫刻し、これを當社へ納められ、今に宝物として、傳へあるのである、亦保元年間に、鎮西八郎為朝は、大嶋に流さるゝ時、自ら参拝して、印と笠とを納められ、其品今に宝物として、傳り居るのである、此等の事実より、見ますると、この時代には尚大社で有たことが、知らるるのであります、
健武の初、足利と平時行と、此地にて戦しこと、駿河染に見えて居ります、この時御社は、兵燹に罹ったので、此れより非常に衰替し、その以後は、上古の盛な時と、比較すると、僅に跡の、残りたるに過ぎぬのである、此の如く最も貴き、御由緒のある、神社故に徳川家時代に、なりましては、極小社で有ましたなれど、御靈顕の著明なるより、諸大名を始め、衆庶の尊敬も厚く、遠近に聞こへ高き、神社で有たである、
崇敬者の團體たる、稲荷講社員は、今や全国に亘り居るのみならず、海外にも渡り居りて、其數は約拾萬人程有ますが、其人々の厚志に因り、宏壮なる御本殿の新築は、既に竣効したのである、尚社地の取擴げ、附属建物の設備等は、全国崇敬者諸氏の、専ら計画しつゝあれば、これ又数年の後には成功し、上古の壮観に復し、高く尊き洪徳を仰ぎ奉るも、遠き未来に、あらざるを、確信する者でござります、
謹で御祭神の、御徳の概略を、申述べますれば、