(注)「善言美詞」では、「天の益人等」を「天は称辞であって、必ずしも高天原を指さない。人民の生活発展を期待する総称。青人草と同義。益人は世界の全人類のこと」「マは完全、スは統治、ヒは霊、トは留まる義。天下国家のため利益をはかる至誠の人の意」とするが、至誠の人たちが過ちを犯すことで種々の罪穢れを生み出しているというのは、少し違和感がある。気を付けていても意識するしないにかかわらず罪穢れを犯してしまうのが人間だという意味ならば理解できるが。また同書では「罪事」を「天則に背反する行為」とするが、思いに従って矩つまり天則に沿うというのが、孔子の説く最高の境地であることを考えれば、利己的な人間の行為の相当部分が天則に背反しているのかもしれない。
長沢翁の「神懸百首」にある「霊術を 修めむ人は 日々つもる こゝろのちりを まつ払へかし」の和歌もある。佐藤翁の解説では「霊術(鎮魂法)を研修する人は、毎日知らず知らずに積もる心の穢れを先づ払いなさい。この心の穢れの蓄積は、不知々々の裡に言葉の上、或は行動の上に於いて、罪穢を積んで居る事で有る。例に言うと、谷間の一滴が次第に集まり泉となり、此の泉が流れて川となり、この川が次第に水嵩を増して大河となって海へそそぐ様に、いつしか、不知々々の裡に大きな罪となって居るかも知れない。神の、いとも、忌み嫌われる罪穢れを祓う為には、古代より身滌の祓いなり、大祓いなりを行なって、心身を浄めて取除く方法が執られて居る。」とのこと。
本田翁も「道の大原」に「霊学者以浄心為本、故皇神以鎮魂為之主」(霊学は心を浄くするを以て本と為す、故に皇神、鎮魂を以て之を主と為す。百姓尊奉して日々に真心を練るべし)と書かれている。「浄心」が霊学の基本ということ。