明治23年に御穂神社の御祭神の神感により「帰神法式」を伝授、さらにその3年後(明治26年)に自ら神霊を召喚する「自感法」を習得と言っているが、そもそも自感法は自ら神霊を召喚する技法ではない。ここが誤っていたら帰神術の定義も誤っているだろう。
佐藤先生曰く、明治27年御穂神社々務所にて、長沢翁を審神者として帰神を執行し、御穂神社の御眷属八千彦命が御懸りによる日清戦争の予言があったという。
しかしながらそれ程の重要な帰神結果が、並木氏によれば『金作の帰神の「履歴書」内には記載がない。また、他の神道三穂教会関係史料からも発見できない。』とある。
これについて並木氏は
『これは、あくまでも宮城島金作自身が、御穂神社社家の出身である自らの出自に重きをおき、長澤の下での神主としての活動には、満足しなかったためかもしれない。あるいは、金作自身の追従者、もしくは弟子筋が、ある一定数集まるようになり、一人の独立した神主としての宗教活動を金作が、目指していったことによるものかもしれない。』と推測しているが、恐らくそうであろう。
これは後の友清歓真氏らも同様だが、長沢翁の御存命中に自身が師事したことを出来るだけ隠すことで、自らの権威を高めようという自己顕示的な意図が窺える。