「本田親徳研究」(鈴木重道氏)を参考に本田霊学の継承について御紹介したいと思う。解説については自説であり、本田霊学としての公式見解ではない。

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『出口王仁三郎が長沢雄楯の許を訪れたのは明治三十一年四月の末である。二十七才のことであった。まだ出口家と関係のない時で上田喜三郎と云っていた。彼はこの年の二月九日から一週間亀岡市曽我部町の穴太区にある高熊山に、ものに導かれて赴き行者修業を経て 霊的の目覚めを体験したと云われている。「巨人出口王仁三郎」(出口京太郎著昭和43年 1月15日講談社刊)によると、この断食修業を契機として彼は神がかりの状態となるので、後年の「霊界物語」第一巻には「丹波穴太の霊山高熊山に一週間の霊的修業をおえてより、天眼通、天耳通、自他心通、天言通、宿命通の大要を心得し:::」と述べているのである。之は霊媒として極めて異常であったことを物語って居ると思うし、この修験者であり霊媒であったという事は、本田、長沢の下に初めより正しき指導をうけ、正神界の守護の下にあった人々と非常に異った存在である事を注意せねばならないと思う。
その彼を清水市に誘ったのは月見里神社に付属する稲荷講社総本部の役員で三矢喜右衛門であった。右の著によれば、
四月二十八日家を出て三矢氏の案内で静岡にむかった。彼は京都駅から新橋行きの列車に乗る。生れてはじめての汽車の旅だ。静岡で乗り換えて江尻駅に下車、十七・八町の道を歩いてタ方静岡県安倍郡不二見村の長沢翁のもとに到着した。
喜三郎は、この長沢翁から霊学の話や本田親徳師の来歴などをくわしく聞かされ、長沢の母豊子からは、本田師からさずかった「神伝秘書」一巻と、「道之大原」「真道問対」各一巻をもらった。ふしぎなことに豊子は、「本田先生の遺言に、これから十年ほど先になったら、丹波からコレコレの青年が訪ねてくるだろう。神の道は丹波から開けるというのがある。あなたが師の大志を継ぐ人に相違ない」といって大層喜んだのであった。