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大和心

第607回 大祓祝詞を考える―50

著者:小山一夫 / 公開日:2024-11-03

掲載準備版・未公開。公開日は元ブログの投稿日です。

以前に書いた手記をここにアップしたいと思います。

「大祓祝詞」を佐藤卿彦先生の著書「顕神本田霊学幽斎記録篇」を手掛かりに考察します。

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本田翁は「幽斎は神殿有る無く。へい幣帛有る無く、祭文有る無し。霊を以て霊に対する耳(ノミ)。」(「真道問対」)としている。神の祝詞は幽斎の領域にあるのだから、顕斎のような祭文は用いない。

「幽斎は霊を以て霊に対し、顕斎は形を以て形に対す、故に幽斎は神像宮殿無くして真神を祈る。顕斎は神像宮殿有りて衆神を祭る」(「道の大原」)とあるように、霊対霊でなければ神には通じない。

「顕斎有れば、則ち幽斎有ることと知る可し。故に顕斎にして幽斎ならざるは非也。幽斎にして顕斎ならざるも亦非也。」(「「真道問対」)。佐藤先生は「斎(マツリ)は幽斎なくしては神界に通じないことを答えているものである」(「顕神本田霊学法典」)と述べているが、やはり幽の働きが必要だということになる。

「太とは、太卜の太(太は霊交(ヒト))であって霊(ヒ)交わるもの。神 (幽の霊)と人(顕の霊)との霊交わらせる詞(コトバ)の事」(「顕神本田霊学幽斎記録篇」)ならば、いかなる祝詞事がその条件に沿うものなのだろうか。

以上を考慮して私の結論を言うなら、「天つ祝詞の太祝詞事」とは言葉によるものではなく、無声無形の神の祓いそのものだと思う。「天つ祝詞の太祝詞事を宣れ」と「此く宣らば」の間は、何か特別な祝詞を奏上するのではない。公式・正式幽斎のように、審神者の法により神主が神と合一して、自らを神籬と化し、その神の働きを以て「祓い」が行われる。

一定の時間その場は無言の動きのない静寂の世界になるが、神の祓いが終わった後に神人合一が解け、「此く宣らば」と祝詞が再開されるわけだ。祝詞の奏上は顕斎である。しかし真の祓いは幽斎によって行う。本田翁の言う「祭文有る無し」の通り、無言の内に神界の祓いが行われるのだ。

次に、罪穢れは最後どうなるのか、といえば、生命力を低下させる原因物は、四柱の神の働きによって細分化されてゆく。喩えはあまり適切ではないが、どんな猛毒でも素粒子レベル以下になれば元の毒性を失うように、極限まで細分化されると、今度は新たな原子の素材になってゆく。