「本田親徳研究」(鈴木重道氏)を参考に本田霊学の継承について御紹介したいと思う。解説については自説であり、本田霊学としての公式見解ではない。

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『長沢は講社の総理で神職を兼ね、国学者本田親徳のおしえをついで、幽斎や鎮魂帰神法をおこなっていた。喜三郎がはじめて総本部を訪ねた時、長沢は霊学の話や本田の来歴など詳しく喜三郎に語った。
長沢の母豊子は「本田の遺言に、『十年後、丹波から一人の青年が訪ねてくるが、その者がくるとこの道は開ける』といったが、貴下が師の大志を継ぐ人に相違ない』といって、本田から授かった『神伝秘書』一巻と、『道の大原』『真道問答』各一巻を写本のまま授与した。喜三郎は、おしいただいて読んでみると、異霊彦命の神訓と同じもので、さらに詳しく神の本義があらわしてあった。奇異に感じ、本田の神名をたずねると、それは異霊彦命であるという。喜三郎は、本田の遺言で「丹波から」といわれた事情を了解して喜び、希望にもえた。このとき、長沢の審神により幽斎の法をさらに深く体得し、三日後に総本部を辞去した。
帰宅して間もなく、霊学会本部設置のことや神感法について疑問の点がでてきたので、5月20日ふたたび総本部を訪問した。このときも都合よく長沢総理に面会ができ、霊学会本部設置の認可をえて、その会長に任命された。また「鎮魂帰神二科高等得業証」を与えられ、京都・大阪両府下の講社事務担当を命じられた。これまであまたの人から「狂人だ」「山子だ」「狐使いだ」などといわれて、正しくみわけてくれる者がなかったにもかかわらず、長沢の審神の結果、高等の神懸と鑑定されたので、喜三郎は喜んで入門した。この時、喜三郎は長沢豊子から鎮魂の玉と、天然の笛とをもらったが、とくに豊子からかわいがられ、養子になれとすら懇望された。」(大本七十年史・上巻)
ということなので、最初が3日間で、2度目も短期間だと思われる。翌年7月頃の来静も3日間程度であった。この文書では、長沢翁の母から『神伝秘書』、『道の大原』『真道問答』各一巻の写本を、2度目の来静の際に鎮魂の玉と、天然の笛を貰い受けたというが、この「母から」という点については、鈴木氏の書かれている通り信じ難い話だと思う。