「本田親徳研究」(鈴木重道氏)を参考に本田霊学の継承について御紹介したいと思う。解説については自説であり、本田霊学としての公式見解ではない。

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1898年 明治31年 28歳 4月 稲荷講社から三矢喜右衛門が来る
1898年 明治31年 28歳 4月 駿河の稲荷講社本部に長沢雄楯を訪問
1898年 明治31年 28歳 5月 稲荷講社に長沢雄楯を再訪、霊学会設置認可を得る
1899年 明治32年 29歳 1月 静岡に長沢雄楯を訪問
1900年 明治33年 30歳 旧9月 静岡の長沢雄楯を訪問
1901年 明治34年 31歳 10月 静岡の長沢雄楯訪問
1910年 明治43年 40歳 12月 出口家への養子手続きを終え、出口王仁三郎と改名
1911年 明治44年 41歳 1月 出口澄との婚姻届を提出
大本教の記録によれば、少なくとも5回は静岡にて長沢翁に面会しているが、どのくらいの期間滞在したかは一部不明。
横山信行氏によれば、
『大本教史料集成によると明治三十一年四月十五日に長沢雄楯に面会し、翌十六日には「真道問対」「言葉の大本」「得業証」を得たと証言している。その後、穴太に帰り五月か六月に神懸を実地に行った。そしたら、次々と「神懸りを止めることができなくなって困った」と警察の訊問及び供述で述べている。
出口が使った鎮魂帰神なる語句はもともと別々の技法であったが、長沢の元での修業期間が短かすぎた為に、判別するだけの技が身に付かず、一緒に混同してしまった。出口は七歳の頃から憑霊現象を起しており、体がそれに慣らされていた為、師の元を離れ指導者がいなくなれば、自ずと憑霊現象に振回されて、大本教事件を引き起すこととなったのは、当然の帰結である。
大本教での鎮魂帰神法は、三方に置いた石に自己の霊を鎮めるのではなく、逆に自分の方に鎮まる様にする方式、ないしは集団で一せいに行う方法であった為、怪しげな霊に憑依された結果、頭のおかしくなる人が続出して、中止することになった。』(「本田親徳の霊学思想と鎮魂法と帰神について」)という。