と紹介している。そして政府が十四年皇典講究所を起して生徒を入れたのは、伊藤博文が憲法の調査にかかるにつれ、日本古典が必要になって之なしには日本の憲法を制定出来ない。国学が必要になったので松野操に命じて皇典講究所を拵えたので、その時学則の中に修身科というものを置いてその中に神典としては平田の古史成文が三冊入っている。神典というものが学課に入っていない。こういう事情であったと、今では信じられない様な事実を述べて次に挿話を語っています。
私ハ理学ノ力デ神典ノ難解ナ所ハ鮮釈ガ出来ルモノト云フ考へヲ師匠ノ本田親徳カラ聞イテ居リマス。非常ニ他ノ人トハ異ツタ考へヲ持ツテ居ル、所ガ之ノ皇典講究所学則ニ平田篤胤ノ古史成文ハ修身科ニ置カレテアルト云フノデ非常ニ意外ニ感ジタ。ソレカラ二十バカリ年上ノ阿波ノ国ノ官幣大社阿波神社ノ大宮司ノ西川寿賀雄ト話合ツテ、彼ノ学則モ不都合ダ。神典ガ丸キリナクテ古史成文ガ三冊修身科へ入ツテ他ニハ何ンニモナイ。アレヂヤ国体ノ尊厳ダノト云フモノ、神道ノ趣旨トイフモノハ丸デ諒解ノ出来ルモノヂヤナイ、アレハ大変不都合ナモノデアルト云フノデ、松尾操ニ面会シマシテ議論シマシタ。所ガドウモ諸君ノ言フノガ御尤モデ、僕モ其ノ意見ハ同ジナンダガ、今日ノ日本ノ学術ヲ以テ出シテ行クト云フヤウナコトハ出来ナイ。…ドウカ 諸君ハ能ク此ノ神典皇典ノ理学ノ科学ニ矛盾シタ所ヲ説明ヲ完全ニシテ呉レ、ソシテ一日モ早ク之ヲ学課ニ加へルコトニシタイカラ、諸君ハ其ノ向へ努力シテ呉レ。此ノ松尾操ノ説ヲ聴クト尤モナ訳ダカラ、私ハ師匠ノ本田親徳ノ理学ダノ科学ダノノ上カラ説イテ居ル説ヲ聴イテ居ルシ、神懸ノコトモ知ツテ居リマスケレドモ、其所デ説明シテ師匠ノ認可モ得ズ学課ニ加へテ行クト云フコトヲ強ヒルコトモ出来マセヌノデ、別レタノデアリマス。