答 ドウモ、邪霊カ邪霊デナイカハ矢張リ「サニワ」ヲシナイ ト…併シ大低良イ神、理窟ヲ言フ人ニハ理窟ヲ云フノガ懸ツテ来ル。
問 其処デ出口先生ガ悪心ヲ持ツテ居ラヌトスレバ悪イ神サンハ懸ツテ来マイト思ヒマスガ、サウハ行カナイノデスカ。
答 其ノ時ノアレニ依ツテモ…。
問 其ノ都度々々違フノデスカ。
答 サウデス。
問 正善ノ人デモ、必ズシモ良イ神サン許リ懸ルト決ツタモノヂヤナイノデスネ。
答 左様、人間ノ魂ト云フモノハ変化ノアルモノデス。不変ナモノヂヤナイノデシテ。
問 魂ト云フモノハ自分ノ意思ニナルノデスカ。
答 左様、良イ意思ノ時モ不都合ナ意思ノ時モアル。
問 判リマシタ。有難ウゴザイマシタ。
とあります。正しい神憑は必ず正しき法式に依らねばならぬ点でも、古来世に多き修験者、霊媒者が或は危険に推移することが多いことを示唆して居り、正神に感交すべき帰神術に於ては参ずる者の非常に純粋に高い霊的境地を要求され、そのために苦難の修業を静かに積むのであって、そこにのみ本 田霊学の真の継承が行われると信ずる。
之を要するに結論的に云えば、長沢門下一千余の中に、真に神主として傑出したのは宮城島金作、武栄太夫の二人であり、そして更に審神者としては稲葉大美津と佐藤卿彦が最も秀でたのであって、佐藤卿彦は稲葉門の高足であり、巳に許されて後師の奨めに従って長沢のもとに入ったのである。それは巻頭の系譜に示してあるが、稲葉門に記した人々は大凡そ昭和十二年以後に学んだので、中に若林耕七については、「道ひらき」の荒深道斉が大正十三年六月、その審神者を乞い神憑式を行った旨が記されているので、他の人々も夫々に霊学を得たものと思われる。蓋し稲葉は教うるに人を選び苟もしなかったに由る様であって、この点は寛大で望んで来るものは何人もこばまず、道を得ると否とはその者の資性と専修によるとした長沢雄楯と対蹠的であったと思われる。』(『本田親徳研究』)