第二段はこの神の道のまにまに特にそれぞれに使命を授かった人間の世に、中心として之を統べて使命遂行せしむべき大いなる神意を以て生れました日知りの皇子の降臨のことを述べ、それは全く道に従い道を顕現する為のものであることを詠じている。神ながらの道、神の道に従って自らも神の道ある生き方であり、まつろひとさきはひの道である。第三段はこの日知りの皇子の代々の皇孫はまたこの天つ神の活らきである道、道の中に充ち満つ天つ神の使命の随に法を定め民の安穏平和を希い努められる。この天地を貫く道は国体の中にあり又個人の霊魂の中にあり、道を外れては人も生き得ず国も立たない。故に現人の神として道を顕現する大君、君を補佐する官人の長は特に子孫永久にこの道に従うべきことを述べ、第四段には然しながらこの道の奥義をたやすくさとることは至難故、心を深めて学ぶべきであり幾万年と雖も不変の大道であると結んでいる。
この長歌は道の雄大限りなく極大から極小に及んでいることを讃歎して、この道に依って使命に追進すべきを言外に含みつつ、道を蔑ろにし外れては生き得ないと断じたのは神譴の遁るゝ処なきをのべたのに外ならない。「道の大原」に、
神子善心を治むれば、大精神之れに霊魂を与え、神子良行を乱せば大精神之れが霊塊を奪う。其の与奪の速やかなること影の形に従うが如し。豈畏れざる可けんや大精神。
と述べているのは人間各個の事としてのみでなく、神子を民族とも地上人類と置き代えて思うとき、現実に道を蔑ろにし道に叛(そむ)いた場合、冥罸(めいばつ)を蒙り霊魄を奪われ滅亡に赴くに到ること必然たるを思わねばならない。心を平らにして我国体の現状また地上人類の現状を省察する時、果して如何の感慨を来すであろうか。』(『本田親徳研究』)