思うに帰神の標目の自感法と他感法は人間の界より神界に対して質して教えを承けたい事があって之を行なうものであるが、神感法は然らず。神界より何等かの必要があって之を啓示するものであって、むしろ本人は之に気付かず、悟り又は自己の霊感として受取る場合多いものであるが、之は非常に注目してよい事に考えられる。元より神感と雖も之は本人の心境の正邪により却って邪神に感合することもあり得るであろうが、その点長沢は人間の心は変転極まりなきもの故に審神者する必要を述べているのである。兎も角も神界が必要あればその者の霊魂に作用して感交することあるは重大であって、又必要によっては命じて帰神の霊法を行なわしめ、之によって神界が活動せられる事も可能であることを想わせるのである。筆者窃かに思うに、本田・長沢二代の霊学はまさしく神界の指導の下に、千年に一人という選ばれた霊覚者によって樹立され、且正しきその継承者を得たのであるが、決して上古に復して朝廷に用いられるには至らなかった。それのみか神社界に於てさえも之を正しく識別するの人物に乏しく、俗世の霊媒と等しく蔑視して学ぶ者すらなかったのであるが、之は或は時勢の推移に照らして、神界の大いなる経倫の一環であって、稲葉―佐藤の系列に於て之までと全く異る霊学の実践が下命せられているに非ざるかを思うのである。この事は副島の処にても述べたのであるが、「神子良行を乱せば」の章の神子を国民・又は我民族とし、或は更に人類に置き換えて思えば良行即ち道を乱せば、果して如何なる結果を来すであろうかを沈思黙考し、現実世界の動静、国民思想の傾向、一人一人の行動を照らして見れば殆ど色を失う感を覚えるのである。読者果して如何であろうか。