「本田親徳研究」(鈴木重道氏)を参考に本田霊学の継承について御紹介したいと思う。解説については自説であり、本田霊学としての公式見解ではない。

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『大本を出てからの友清は本田親徳に心酔し、翁のことを「過去の世紀に於ける釈迦・基督の如くに、否な或いはそれ以上に地上人類の崇敬と讃嘆とを払わしむるに至るべき一大人物」(「鎮魂帰神の原理及応用」)と最大級の賛辞を捧げ、本田の死後の弟子をもつて任じていたその一方で、友清は、平田篤胤が先鞭をつけた霊界探究にも取り組みつづけ、幽冥界の情報をこの世にもたらした秘籍の蒐集にも精力をそそいだ。』(「新・日本神人伝」)
その成果として出版したのが、大正9年(1920)刊の「幽冥秘録神仙霊典」と大正12年刊の「幽冥界研究資料」ということだが、このころから友清氏は資料収集の範囲を広げてゆく。そして宮地水位氏(1852-1904)の文献と堀天竜齎氏(1856?-1930)に巡り合う。友清氏は後に本田翁とこの二人を「天行居の直接の大先達」としている。ただし生前に会えたのは堀氏だけである。
宮地氏は宮地神仙道の祖として知られ、異界と現界を往来し、神仙思想と古神道を融合させたという。堀氏は倭姫命から伝えられたという太古神法の継承者という。
友清氏は資料収集等には熱心であったが、法術の面では長沢翁からほとんど伝授されていないため、他人を指導するレベルではなかった。
本田霊学では、正式な審神者になって初めて指導が可能になる。それは皇学の知識だけでは不可能であり、自らの弛まぬ修行、審神者からの実地指導、師の元での審神者の実修訓練などが前提になる。つまり然るべき年数がどうしても必要になる。
友清氏は1年も経たずに長沢翁の元を離れているため、審神者の資格を得ることはできなかった。そこで団体を大きくするために、どうしても何らかの古神道的な秘儀が必要になり、各地を歩き、様々な手段で資料を集めることになる。