以前に書いた手記をここにアップしたいと思います。
「大祓祝詞」を佐藤卿彦先生の著書「顕神本田霊学幽斎記録篇」を手掛かりに考察します。
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『日本の神道は、結論的に申し上げれば、実質、実体を持つて居るのであります。それが他の宗教と異なる点であります。さうしてその実質は目を以て見、耳を以て聞く事は出来ないが、心眼を以て見、心耳を以て聞くのであります。此の境地が解らないと楔祓の精神は出て来ません。唯無闇に、怪力乱神を語るのは、固より論ずるに足りませんが、祓、楔、鎮魂をして神の声を聞き、神の姿を見るの境地に達する事に努めねばなりません。祓をすると云ふのは結局神と合一するといふ事であります。また人を祓ふ資格を神主はどこから得るかと云ひますと、祓戸の神と合一するといふ事に於いて、初めて人を祓ふ資格が出来るのであります。 唯幣を振つて居れば人を祓ふ事が出来るやうに思つてゐるのは、問題になりません。神人合一して真に人を祓ふことが出来ないものならば、日本の神祗に関する問題はすべてどう解決するのでありませう』。
『翁は、神を心眼をもって見、心耳をもって聞くためには、祓え、喫ぎ、鎮魂をしなければわからない、といいます。従来の学説のように、「大祓詞」の古典的解釈だけでは、決して大祓は説き得ないと考えます。なぜならば、祓えをすることとは、神人合一することだからです。その境地に達しなければ、大祓は説き得ないことになります。そして、神主においては、神人合一しなければ、真に人を祓うことはできない、と、翁は注意します』。
この考え方は、概ね頷ける内容だと思う。結局は「祓戸の神と合一する」ことが祓いを行うための要件だということだ。だが、どうすればそれが可能になるのか、その点が明確にならなければ祓いはできないだろう。