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大和心

第891回 本田霊学の鎮魂法と帰神術について-2(2/2)

著者:小山一夫 / 公開日:2025-06-05

掲載準備版・未公開。公開日は元ブログの投稿日です。

なお、神武天皇が大和御鎮征後、鳥見(とみ)山中で霊時(まつりのには)を建て、天照大御神を祭り、天神(あまつかみ)地祗(くにつかみ)を祀らせ給うたのも右の岩屋戸の祭儀に則(のつと)ったものである。本居翁著古事記伝に、書記神武の巻に、顕祭此を云干図詩恰破昆(うつしいはい)と有り、太古は天津神籠(ひもろぎ)、天津磐境(いわさか)とて、自然の崇厳なる森林とか山又滝などを以て神の御室として斎祀していたのである。

垂仁天皇廿六年十月に、倭姫命によって伊勢国五十鈴の川上を、天照大御神の御鎮座地として底津磐根に大宮柱太敷立て、御神殿を御建設遊ばされたのが最古の建築神殿である。神簾にしてもこの神殿にしても、之の御前で祭典儀式を行うのが顕斎で、即ち神殿あり、祭式あり、楽あり玉串の奉箕等が行はれる処の、一般各神社で執行する祭事を「顕斎」と云うのである。

書紀に、大穴牟遅命の御言に「吾所治顕露事者(わがしれるあらはにごとは)、皇孫当治(すめみまのみことしろしめせ)、吾将退治幽事云々(あわかくしてかみごとしりなむ)」とあり、此の時に顕幽の区別(けじめ)が定まったと云はれるが、幽神事(かみごと)とは幽冥界の事であり、顕露事(あらわにごと)とは顕界の事である。故に顕幽なるものは、之によってよく察せられることと思う。』(「顕神本田霊学法典」)