本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。

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では「みたまふり」についてはどうか。これも神を主体にとして考える。つまり分魂に際に必要な法則であり、具体的には霊魂の「運転活用」を意味する。
ここでの「自」は御神霊であり、その働きは、本来鎮まる処以外に分魂を鎮めることにある。
「他」は吾霊であり、その分魂を鎮魂石に鎮めたり、自感法よりその分魂を神人合一させる。
この両者を本田翁は「其ノ霊魂ノ憑付ク処同義ナルモノナリ」として、「同義」とされている。
つまり、神が御自らその霊魂を自ら(例示では「御首玉」)に鎮めるのと、吾霊を自らの身体の中府や鎮魂石に鎮めるのとは、「神界の法則」に於て「同義」だということだ。
本田翁は、審神者の重要性を説いている。ではこの鎮魂の法則は、審神者にとってどのような意味を持つのだろうか。審神者とは、しばしば神の代理人としての役割を受持つ。
① 「みたしずめ」については、御神霊を自らの身体の中府や他の場所に鎮める。
② 「みたまふり」については、御神霊を転霊する。神主、御霊璽、鎮魂石等が対象となる。
つまり、この鎮魂法を駆使しなければ、審神者としての役割を果たすことは出来ない。
神が御自ら三種の神器に御鎮まりになるのも、神の鎮魂といえよう。
これについては本田翁も「今我云フモノハ鎮魂ノミノ謂ニ非ズ。」と言われている。
天武天皇の御代に成立したという鎮魂祭は宮中祭祀の重儀として扱われたが、長きに亘り天皇御自身が鎮魂祭を行わなかったのはいかなる理由によるものか、それがわからないと顕斎としての鎮魂祭の意義も明らかにならないだろう。
大嘗祭と新嘗祭の前日に行う鎮魂祭には、古代も現代も天皇は参加されていない。もし天皇の霊力を高めるのがその目的だというならば、天皇が参加された方がより良いとは考えなかったのだろうか。或いは天皇御自身は鎮魂を必要とされないのだろうか。