本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。

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禅の鈴木大拙先生は、「悟りは人間の中に神が入り来たりて、そこで神が自己を意識するのである。」(「禅による生活」)という。これは受動態としての合一だ。
曹洞宗の道元禅師も、「出路に一如を行ずるなり。その超関脱落のとき、この節目にかかはらんや。」(「正法眼蔵」)と、能動態の霊肉分離を説いている。
これは道家(出神法)や、古神道(能動的な自感法、受動的な他感法)と原理的に似ている。
しかながら問題は、それぞれ具体的にどこにアクセスするかである。
つまり「神我とは何か?」が、ここでの最大のポイントなのだ。
神我は、宇宙の最高原理とされているが、アタルヴァ・ヴェーダでは、カーラ(時間)、プラーナ(エネルギー)、スカンバ(支柱)の3種類が例示されている。
ところが、これらはある意味「神」としての位置付けと言ってもよいのに、信仰の対象にはなっていない。中国でも「太極」や「道(タオ)」は同じ扱いだ。日本でも神道の最高神である天御中主神を祀っている由緒ある神社は一つもない。つまり、信仰の対象になっていない「神」にアクセスするわけだ。ここが重要なポイントである。
これらは総じて「造化の神」(根源的なエネルギー、自然法則の働き)という性格なので、信仰の対象である旧約聖書などの「造物主の神」とは本質的に異なる。