本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。

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鎮魂法は霊肉分離の為の修行だが、それは脱魂を伴うわけではない。
津城寛文氏は、「シャマニズムの本質は脱魂ecstasyか、憑霊possessionか、トランスtranceか、という、シャマニズムの定義に関わる基礎的問題」云々の視点から無理やりこじ付けの様な自説を展開してゆくが、それでは本質を見失い、正確な理解から離れてゆくだけだ。自分の思い込みで全てを決めつけるようでは、学者としての見識を疑ってしまう。
結論をいえば、鎮魂法の最中に憑霊はあり得ないし、津城氏の思うようなトランスも起きない。脱魂というが、本田霊学では「分魂」であり、その点も誤り。津城氏の説を読んでいると、大本の鎮魂帰神法で憑霊現象が日常的に多発していたために、脱魂や憑霊現象を伴うものと誤解したのではないだろうか。
出口氏は大正10年に、『鎮魂帰神の法は伝授してあるが、神憑りは許していない。旧役員の神憑りはすべて偽神術によるものであると警告し』(大本七十年史)とまで言っている。
神憑りのない鎮魂帰神法ならつまり鎮魂法のことだろうと津城氏が考えたのならば、それは大本教の鎮魂帰神法の事であり、本田霊学とは無関係だ。つまり、単に言葉が似ているというだけの事である。
それにしても出口氏の言う「神憑りのない帰神」とは一体どういうものなのだろう。この「偽神術」を体験していない筆者には理解できない。