本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。

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② 『一切の妄想を除去する事が一つ条目になつて居りますが、到底深山へ入つて見ても、妄想を除去する事は、肉体の在る限りは無理な注文である。不可能である。何人が実験されても、吾人の説が首旨〔肯〕されるのである。其の妄想を除去する迄に神人合一を行うのが大本の霊学である。』(「大本史料集成」)
言葉では理解できても、実際にやろうとするとすごく難しいということは多々あるが、鎮魂法の最初の関門は「一切ノ妄想ヲ除去スベシ」であろう。
座禅では妄想の除去に取り組む場合、例えば数息観で息を数える事に集中するように言われるものだが、それでは全く意味がない。なぜなら頭の中にひしめき合っていた妄想が、息を数えるという行為や数字に置き換わるだけだからだ。眠れない子供に羊を数えさせるのと大差ない。妄想は除去されるかもしれないが、他の言葉やイメージで頭が埋め尽くされるだけだろう。それで妄想を除去できたと喜べるだろうか。質的にはほとんど変わっていないのに。
出口氏は、「其の妄想を除去する迄に神人合一を行うのが大本の霊学である」というが、神人合一の為に「一切ノ妄想ヲ除去スベシ」が必要なのだから、それでは神人合一にはなり得ない。数息観の原理と同じく憑霊の言葉や動きに支配されるだけだ。つまり妄想がより強まるだけで、「一切ノ妄想ヲ除去スベシ」とは完全に逆行する。
では、どうすれば妄想から離れられるのだろうか。