本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。

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『第二章 鎮魂の極意
極意と云っても、筆や言葉で表現出来得るものではない。其れは悟りにあり体得にある。又自己の持つところの奇魂の活(ハタラ)きにもある。左に述べる事柄は抽象的な、部分的な表現とならざるを得ないが、之れらの点を了解せられて後学の者は、審神者とか先輩者の体験等をよく聞かれて、自ら大悟すべきであろう。
鎮魂修法中「吾が霊魂が石に鎮まる」と云う事を強く思念せねば、完全な鎮魂とはならぬと前に述べておいた。この思念は絶対に必要欠くべからざるものではあるが、然し、この思念して居る間には石に“吾霊”は鎮まっていないものである。それは何故かと云うと、思念する其のものが既に無念無想ではなくて、其処に「我(が)」が働いて居る為であり、所謂“無我”ではないからである。
鎮魂の重点は、この思念を強く何回か送った後、“無我”の境地に入るのである。即ち「深い深い統一状態」に入ることである。此の深い統一状態に入って居る裡に、其の鎮魂力の閃めき(活動)が発揮して、此所に始めて吾霊が石に鎮まる事となる。此の方法は初歩の内に行ってはならない。それは最初より真の無我の境地に入られるもので無く,かなりの苦心錬磨を経て体得出来得るものであって、初歩の内に之の方法で行なうと、前に述べてある如く、雑念妄想の俘(とりこ)となり収拾のつかない状態となる為である。故に或る時期、でき得れば眼を閉じていても、鎮魂石が眼前に剣然と見ゆる様な境地に到達して行えば、その効果は一層大である。左に本田翁著“道之大原(解説一四二頁)”の一説を引いて参考に供す。「霊学は心を浄むるを以て本と為す。故に皇神鎮魂を以て之が主と為す。百姓(せい)尊奉して日々に真心を錬るべし。令義解に云う、“鎮は安なり。離遊の運魂を招きて身体の中府に留むるを言う”と。見るべし其の国家の重典たるを。今人蒙昧頑乎(がんこ)にして顧みず、法を外に求め、術を異に尋ぬ、慣習常と為り、汚穢日に加はる。憶悲しいかな」と。鎮魂法は、心を浄むると共に、而して自己の霊魂の運転活用を計り、なお幽冥界を探知するの術を鍛える処にある。』(「顕神本田霊学法典」)