本田親徳翁の「鎮魂法と帰神術」について考察したいと思います。

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『第二章 一霊四魂
凡そ霊学を修むる者は、一霊四魂のあることを知らなくてはならない。我々の霊魂は産霊(むすび)の神より分け与えられたもので有り、即ち分霊(わけみたま)である。故に人(ひと)とは霊止(ひと)どまると解されている。前の“審神者の覚悟”の大要五項に示す如く、「荒魂和魂幸魂奇魂(四魂)を知らずばあるべからず」と在る如く、此の四魂の活きと、一霊とは如何なるものであるかを、心得て置かねばならない。
道之大原に(解説一四一頁)「万物の精神は亦神の賦与する所なり、然りと雖も其の受くる所の体に、尊あり卑あり、大あり小あり、故に各々美あり悪あり賢あり愚あり、其の千変万化究尽無きが如し」。と説かれ,又(解説一三五頁)「荒魂(あらみたま)は神勇、和魂(にぎみたま)は神親、奇魂(くしみたま)は神智、幸魂(さきみたま)は神愛、乃ち所謂霊魂にして、直霊(なおみたま)は之を主宰す。俗学識らず、荒和を以て心の体と為し、奇幸を以て心の用と為す。直霊の何物為るを知らず。豈に悲むべき哉」と有る。此の説の如く宇宙の活物は其れぞれ四魂を有しては居るが、「直霊」を所有して居るのは“人間”のみである。故に前に述べた「霊止(ひと)」と申すのは此の謂であり、万物の「霊長」である所以も之れに依る処である。なお直霊は「顧霊」とも謂い省(かえり)みる霊(みたま)とも云はれている。我々人間社会は此の省みる霊−直霊−の活きをもって、共に手を携え共存共栄の道を歩むべきであり、これが神の道であり、惟神(かむながら)の道でもあると惟う。なお我々の性質(さが)の異るのは何故かと云うと、右に述べてある神の賦与した四魂の「軽重」に依り、各種各様に性質が違って居るものである。』(「顕神本田霊学法典」)