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大和心

第1310回 道之大原(本田親徳翁)-9(2/2)

著者:小山一夫 / 公開日:2026-07-04

掲載準備版・未公開。公開日は元ブログの投稿日です。

大精神(神)は総ゆる事を無声に聴きとり、無形に視られる。顕界の様に、形や色を以って物を判じたり、声や音に依りその性情を聴きとったりはしない。顕界に於いては、形や色の生活より離れる事は出来得ない。我々の生活の周囲を見渡しても、何かの形のものと其れに色彩のものが加わっている。此の形を見て美(芸術口)とか何とか(例えば生活必需品)に別けたり、色彩はセンス(感覚)と良否に分けたりしている。

此の様な面は、声と音に就いても、稍(ヤヤ)、同じ様なものと思う。神界に於いては顕界とは全然次元が異なり、時間(何百何千年)空間を超越した世界である。神界に於いては時間的に見るとすると、何万何千年は瞬時の内である。兎角、我々は、人間的に体的に神界の様想を解釈しがちで有る為に、幽冥界の組織と御活動に就いて、その奇霊なる状態、有様を察する事の出来得ないもので有る。

神界に於いては既往(過去)を知り、未然(これより起る事・未来)の事柄を察するは当然の事で有らう。

扨、我々が修する鎮魂、帰神の神術は、対(堪)えず専修して行けば、愈々其の堂に入る(達する)と種々な事柄を、無声に聞き、無形に視て、既往を知り未然を察するの境地に至るので有る。

吾々の遠い祖先は現に此の神法を自然実修して、治国平天下の大業を遺憾なく行って来たものである。大精神(神)は此の神法を奇霊なる活きの術を神子(子孫)に賚ふて(与えて)来られて居るのである。此の故に神子は、善く之れを尊み奉って、常住坐臥此の術により徳を積む(徳行)状態(生活)を致さねばならない。

是れこそ治心の本、修身の要(諦)であって、道徳も倫理の学説などは、此の術を修むる事に依って無用(極端かもしれぬが)のものとなるものである。この故に「心の欲する処に随って矩を越えない」の境地に至るべきである。此のような点もこの行で説いてある。(「顕神本田霊学法典」佐藤卿彦述)