なお又、我々は不知々々の裡に言葉の上、或は行動の上に於いて、罪穢を積んで居る事も有る。例に言ふと、谷間の一滴が次第に集まり泉となり、此の泉が流れて川となり、この川が次第に水嵩を増して大河となって海えそそぐ様に、いつしか、不知々々の裡に大きな罪となって居るかも知れない。
これ等の罪穢は遠い祖先から来たるものも有らうし、我々現在に於いても積み重ねて霊魂を曇らせている場合も多いのである。始祖(岐・美二神)の遺せしものでは無いとの事は是れを指して云われているのである。
罪穢を祓う為には古代よりの行事たる身滌の祓いなり、大祓なりを行って、心身を浄めて其れを取除かねばならない。そして其の浄らかな心身を以って社会を明るくして行くのが、人の道(人の務め)ではないかと思われる。
「改言乃改過は無悪の竟なり云々」は此の祓いの事を云っているので、先に申し述べた言、行(言葉、行動)の罪穢を祓いの行事にて祓う事に依り、そして過を去らしめる「党」を持って進まねばならぬと云う事であろう。
人の生前の善行、悪行は死後に於いて神の審判を受け、善魂は正神界に至り、悪魂は誅(罰)せられるものである。此れが故に碌々(何もなさない様)=正しくない、つまらない日時を送って行き漠としていて、死後始めて気が付く様な事が有ってはならない。よく此の点を悟るべきである。
祓いの行事(顕斎でもよい)=幽斎に於いては、鎮魂、帰神で神霊に接し浄めるべきである。(「顕神本田霊学法典」佐藤卿彦述)