此の様な意味(点)から「尊心」の項目を読めばその意味が良く判る事と思う。則ち「大義」の為「公共」の為の「活(ハタラキ)き」(活動)を言ふので有って、心を尊び……は善の本なりの語は゛葉蔭れ゛精神の現われではないが「武士とは死ぬ事を見つけたり」との様な意味とは現在は異るが、兎角、大義名文、公共(社会的)の為に、「体を軽んじ、心(即ち精神)」を根幹としての活きは、確かに゛善゛の本となる訳である。神勇に配すれば勇魂之に従う。と云う事は、この辺の意味を含んで居るのである。
「体を尊び心を云々」なる事は、人として体慾に制せられて、心(精神)なるものを忘れ、本能のみに行動する……、此れは即ち゛悪゛は私有(個人的)なものである。と云う点を説いて有る。此の故に、身を致し力を尽すは(本田翁述)と同意義の正心徳行(長沢翁述)(公共的)は善であり、不正無行(個人的)な者は悪であるの意味が悟れるものと思う。人は万物の長と生れ、大きく云えば、天地の間の経綸(国家を斉める)主宰者であるので有る。故に何ら活動もせず、働く意欲もなく懶惰(ランダ)(なまける、だらしない)生活を送って居ったなれば、之こそ真実の悪である。要は公共(社会・国家)の為に尽すこそ人としての務めであると云う訳を説いて居るのである。要するに、社会、国家に「身を殺して仁を為す」こそ゛善゛なるもので、犠牲的精神を、善と云えるのである。
是れ夫れ誰が過ぞ=は、之の精神を忘れてはならないと云う面を強く語句として表現して有る。
滄海窓間答に「悪人の魂は幾千万年の久しき後、神の元素に帰る。其の間の分析の苦痛拷掠(コウリャク)(かすめと・奪いとる)譬えようなく而して後に真に死す」とある。(「顕神本田霊学法典」佐藤卿彦述)