2022-02-23 著者:小山一夫
原文保存・医学的校閲前/画像は元サイトから読み込みます。
「虚無を呼吸し、丹田にいれる」という言葉があります。
中国でもその解釈は流派等によって様々ですが、私は次のように考えています。
普通、呼吸と言えば、息を吸ったり吐いたりすることを想い描きます。
これを何らかの定まったやり方で行えば「呼吸法」とよばれるものになります。
でもどんなに頑張って息を吸っても、空気は肺に入りこそすれ丹田には入りません。
もちろん丹田という臓器もないわけですが。
いずれにせよ「虚無を呼吸し」という時、呼吸は単に息を吸ったり吐いたりする行為を指すわけでないことがわかります。
ではどういう意味なのでしょうか?
そのヒントは「虚無」という言葉にあります。
虚も無も、形あるものではありません。
つまり無形の世界です。
この「虚無」ですが、なんとなくイメージする程度で適当に解釈するべきではありません。
そもそも虚と無を体験できていない人に「虚無を呼吸する」とは何か?を解説できるとは思えませんが。
「虚無」とは、全く異なる「虚」と「無」を熟語にしたものなのです。
「虚」を体験しますと、視座を変えるだけで「無」も体験できます。
ですから、「虚は体験できたけど無はまだです」なんてことはあり得ません。
どうすれば体験できるか、それぞれどういう世界なのか、はおいおい書きたいと思います。
ここで一つ例を挙げたいと思います。
これを実際に実現するには、自ら虚と無を体験していなければできませんが。
無形のものを呼吸するとは、
たとえば大自然から得られる気、つまり光や熱を全身に透過させ、それを丹田に留めることだと思います。この透過させるときに「無」が必要であり、留めるときに「虚」が必要になります。
このことについて古神道でも「神は呼吸するか?」という問い掛けがあるくらいです。
本当は体験を伴わないとわからないとても深い話なのです。
話を道家に戻します。
前に「気」について解説しましたが、気にはたくさんの種類があります。
それらの気を適切にもちいて生命力を高めたり、大自然の気と融合させたりするのが、本来の道家の功法の考え方です。
吸ったり吐いたり、もちろん大事なことです。
でも上辺だけで考えたり、象の尻尾だけ触って象の全体像だと誤解するのは賢明ではありません。
つづく