2022-12-02 著者:小山一夫
原文保存・医学的校閲前/画像は元サイトから読み込みます。
「技が至れば無心にしてまさに真技となる」 王老師
形だけ修練しても「意」なくして行ずるならば、無形の境地、真技に至ることは出来ないでしょう。
「技が至る」為には弛まぬ修練が必要です。
そして一段一段踏みしめながら階段を上るが如く、地道に功を練ってゆくしか方法はないのです。
ここで問題になるのは「意」という言葉です。
私はこれを内観と行気に分けて考えています。
内観とは内的な観察と集中であり、行気とはエネルギーの操作に他なりません。これなくして功を練り上げるのは、まず無理だといってよいでしょう。
無形に至るとは、まさにこの様な次元の話なのだと思います。
気流とでもいいましょうか、自分のみならず大自然の気の流れをも包含して、無心の内にそれを鎮めてゆくことが、無形の技に至った段階なのでしょう。ある意味、鎮魂と言ってもいいかもしれません。
そこでは何かの形・型に無理して嵌め込む作為などないのです。
まさに老子の説く無為そのものといえます。