一般財団法人 野萩青少年育成財団

御製の視点から明治の歴史を読む――出来事と御製

先行公開・2026年10月11日

第1回 明治十一年以前の出来事――日本と世界

明治11年(1878)までの主な出来事

日本の出来事

王政復古の大号令(慶応3年・1867)

徳川慶喜が政治を朝廷へ返す大政奉還を行った後も、徳川家は大きな領地と軍事力を持っていました。旧暦12月9日、薩摩藩などを中心とする勢力は、天皇を中心とした新政府をつくる王政復古の大号令を出しました。幕府だけでなく摂政・関白などの旧制度も廃し、総裁・議定・参与という新しい役職を置きます。

しかし、誰が新政府を担い、徳川家をどう扱うかについて対立が残りました。政権の変更が直ちに全国の合意を生んだわけではなく、この争いは翌年の戊辰戦争へつながります。ここでの月日は当時の旧暦によります。

総裁・議定・参与は、旧幕府の役職を引き継ぐのではなく、公家や諸藩の人物を新しい政府へ組み込むための役職でした。大政奉還が徳川慶喜自身による政権返上であったのに対し、王政復古の大号令は、政治の仕組み自体を改める宣言だったという違いがあります。

出典・参考:国立公文書館・公開資料

戊辰戦争(1868〜1869)

明治新政府側と旧幕府側の間で戦われた内戦です。1868年の鳥羽・伏見の戦いをきっかけに、新政府軍は東へ進みました。江戸城は交渉によって大規模な市街戦を避けて明け渡されましたが、東北の諸藩や旧幕府軍の一部は抵抗を続け、戦闘は会津、さらに北海道へ及びます。

1869年、箱館の五稜郭を拠点とする旧幕府軍が降伏し、戦争は終わりました。「戊辰」は戦争が始まった年の干支です。この内戦によって新政府の支配は広がりましたが、戦場となった地域では住民も家や生活の基盤を失い、復旧に長い時間を要しました。

出典・参考:国立公文書館・公開資料

江戸から東京へ――天皇の移動と政治の中心(1868〜1869)

1868年、江戸は東京と改称され、明治天皇が京都から東京へ赴かれました。いったん京都へ戻られた後、1869年に再び東京へ移られ、政府の主要な機関も東京で活動するようになります。長く天皇の都であった京都に対して、東京は旧幕府の城や行政施設を備え、東日本を治める拠点でもありました。

この一連の動きを一般に「東京遷都」と呼びます。ただし、一日の宣言だけで都を移した出来事として理解するより、天皇の居所と政府の仕事の中心が段階的に移ったと捉えると分かりやすく、京都の人々の不安や旧江戸の町の変化も伴う大きな転換でした。

出典・参考:国立国会図書館・公開資料

版籍奉還(1869)

「版」は土地、「籍」は人民の名簿を意味します。版籍奉還とは、大名が治めていた土地と人民を天皇に返すという形で、全国の統治を新政府の下へ集めようとした改革です。薩摩・長州・土佐・肥前の四藩主が先に申し出て、他の藩もこれに続きました。ただし、この時点で藩がなくなったわけではありません。

多くの旧藩主は知藩事という地方の長に任命され、従来の地域を引き続き治めました。領主の私的な支配から国の行政へ移る第一歩でしたが、軍事や財政には藩ごとの差が残り、全国を直接統治する仕組みの完成は1871年の廃藩置県を待つことになります。

旧藩主が知藩事として残ったため、住民から見ると、改革の直後には支配者の顔ぶれがあまり変わらない地域もありました。それでも、土地と人民を領主個人のものとせず、中央の政府に属するものと位置付け直したことが、次の廃藩置県を可能にする土台となりました。

出典・参考:国立公文書館・公開資料

廃藩置県(1871)

新政府は全国の藩を廃止し、府と県を置いて地方を直接治める制度に改めました。版籍奉還の後も地方の長を務めていた旧藩主は職を解かれ、東京へ移ることになります。代わって中央政府が任命した官僚が地方行政を担当しました。これによって、藩ごとに分かれていた税や軍事、行政を国としてまとめる道が開かれます。

最初は旧藩を引き継いだ多数の県ができ、その後、統合と境界の調整が重ねられました。今日の都道府県が一度に完成したわけではありません。住民にとっても、年貢や役所との関係が変わる、身近な統治の仕組みの大改革でした。

廃藩置県を支えたのは、中央に集められた軍事力と、各藩の財政・行政を統合する方針でした。藩によって異なった教育や治安、税の仕組みを全国的に整える一方、従来の藩で仕事をしていた武士たちは職と収入の再編に直面しました。国の制度の統一は、地域の人々の生活の再編でもあったのです。

出典・参考:国立公文書館・公開資料

神仏判然令――神と仏を分ける政策(1868)

日本では長い間、神社と寺院が結び付き、神を仏の現れと考えたり、僧侶が神社の祭りを担ったりする神仏習合が行われていました。新政府は1868年、神社に関わる僧侶を還俗させ、神社の仏像や仏教的な名称・道具を取り除くよう命じます。これら一連の命令が神仏判然令、または神仏分離令です。

「判然」とは、はっきり区別することです。法令そのものは全国の寺を破壊せよという命令ではありませんでしたが、一部の地域では仏教排斥の動きと結び付き、寺や仏像を壊す廃仏毀釈へ発展しました。地域の信仰生活や文化財にも大きな影響を残した政策です。

「還俗(げんぞく)」は僧侶の身分を離れること、「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」は仏教を退け、寺や仏像などを壊す動きを意味します。神仏を制度上分ける政策と、寺院や文化財への破壊行為は同じものではありませんが、政策の受け止め方や地域の事情によって両者が結び付きました。

出典・参考:国立公文書館・公開資料

祭政一致と神祇官の再興(1868)

祭政一致とは、神々をまつる祭祀と国を治める政治とを一体のものとして考える立場です。新政府は古代の制度を手本に、神々の祭りを扱う神祇官を再び設ける方針を示しました。天皇の祖先神を中心とする祭祀を、新しい国家のよりどころにしようとしたのです。神仏分離もこの流れの中で進みました。

ただし、政府の宗教行政の仕組みは固定したものではなく、その後、神祇省、教部省へと改められていきます。「祭政一致」という言葉だけで明治期全体の政治や国民の信仰を一様に説明することはできません。維新直後の国家づくりにおける重要な方針として位置付けられます。

神祇官の「神祇」は、天の神と地の神を合わせた呼び名です。古代の官職名を用いたことには、幕府の政治を終え、天皇の古い統治に立ち返るという新政府の自己理解が表れています。ただし、実際には新しい役所と制度を試しながら国家をつくっており、古代の仕組みをそのまま復元したわけではありません。

出典・参考:国立公文書館・公開資料

五箇条の御誓文(1868)

旧暦3月14日、明治天皇が神々に誓う形で、新しい政治の基本方針が示されました。広く意見を求めること、身分を超えて力を合わせること、人々が志を遂げられるようにすること、古い悪習を改めること、世界から知識を学ぶことの五条です。由利公正・福岡孝弟・木戸孝允らの草案と修正を経て成立しました。

ただし、当時の「公論」が直ちに全国民の平等な選挙権を意味したわけではありません。新政府の進む方向を示す宣言であり、その理念を制度としてどこまで実現するかは、その後の政治の課題となりました。以下に五条全文と後文、現代語訳を掲げます。

掲載範囲:五条全文と後文。原文は明治神宮の公開本文により、改行を読みやすく整えています。現代語訳は本稿で作成しました。

第一条

原文

一、広く会議を興し万機公論に決すべし

現代語訳

広く人々を集めて話し合う場を設け、政治に関わるさまざまな事柄を、公の議論によって決めるべきである。

「万機」は政治上のあらゆる重要事項、「公論」は一部の人の私的な都合だけによらない公の議論を指します。当時の会議の担い手と、現在の普通選挙による議会とは区別して読む必要があります。

第二条

原文

一、上下心を一にして盛に経綸を行ふべし

現代語訳

身分の高い者も低い者も気持ちを合わせ、国を治め、人々の暮らしを整える仕事を積極的に進めるべきである。

「上下」は当時の身分や立場の違いを踏まえた言葉です。「経綸」は国の仕組みを組み立て、政治を適切に行うことをいいます。

第三条

原文

一、官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦ざらしめん事を要す

現代語訳

朝廷の役人も武士も、さらに一般の人々も、それぞれが目指すことを実現できるようにし、人々が意欲や希望を失わないようにすることが必要である。

「官武」は公家・官人と武家、「一途」は分け隔てなく同じ方向へ進むことです。「倦ざらしめん」は、失望したり意欲をなくしたりさせないように、という意味です。

第四条

原文

一、旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし

現代語訳

昔から続いているというだけで悪い慣習を守るのはやめ、広く道理にかなった原則に基づいて物事を行うべきである。

「陋習」は改めるべき悪い慣習です。古くからの文化すべてを捨てるという意味ではありません。「天地の公道」は、私的な利害を超えて通用すると考えられる正しい道理を表します。

第五条

原文

一、智識を世界に求め大に皇基を振起すべし

現代語訳

知識を世界から広く学び取り、天皇による統治の基礎を大いに盛んにするべきである。

「皇基」は天皇による統治の基礎、「振起」は奮い立たせ、盛んにすることです。世界に学ぶ開かれた姿勢と、天皇を中心に国家を立て直す目的が、一つの条文に表されています。

後文

原文

我国未曾有の変革を為んとし
朕躬を以て衆に先んじ天地神明に誓ひ
大に斯国是を定め万民保全の道を立んとす
衆亦此旨趣に基き協心努力せよ
明治元年三月十四日

現代語訳

わが国がこれまでにない大きな変革を行おうとするに当たり、私自身が人々の先頭に立って天地の神々に誓い、ここに国の基本方針を定め、すべての人々の暮らしを守る道を立てようとする。皆もこの趣旨に沿い、心を合わせて努力してほしい。

明治元年3月14日〔旧暦。西暦では1868年4月6日〕。

「朕」は天皇が自分を指す言葉、「国是」は国の基本方針です。「万民保全」は、広く人々を保護し、生活の安定を図る意味に読めます。

出典・参考:明治神宮・公開資料

五榜の掲示――人々に何を命じたのか(1868)

五箇条の御誓文の翌日、新政府は一般の人々へ向けた五枚の高札を出しました。「榜」とは、人目に付く場所に立てる掲示札のことです。内容は、①人間関係の道徳と弱い立場の人への配慮、②集団での強い要求や村からの集団離脱の禁止、③キリスト教などの禁止、④外国人への危害の禁止、⑤許可なく所属する国を離れることの禁止でした。

新しい政治を始める一方、民衆の統制には江戸時代の考え方を多く引き継いでいます。「五倫」と「切支丹禁止」は、以下のような意味です。新政府の方針を示す御誓文と、民衆に守らせる規則である五榜の掲示は、性格の異なる文書でした。

五倫とは――五つの人間関係における道徳

五倫(ごりん)は、中国の儒教に由来する、人が社会で守るべき五つの関係です。江戸時代の教育にも広く取り入れられ、明治新政府も高札でその遵守を求めました。五つの法律や五種類の罰を意味する言葉ではありません。

人間関係当時、重んじられたこと
父子の親(ふしのしん)親と子が愛情で結ばれること。親が子を慈しみ、子が親を敬い大切にする関係を重んじます。
君臣の義(くんしんのぎ)君主と仕える者が、それぞれの立場で道理にかなう責任を果たすこと。君主への忠誠とともに、治める側にも適切な行いが求められる考えです。
夫婦の別(ふうふのべつ)夫と妻には区別された役割があるとすること。「別」は離婚の意味ではありません。当時の男女観と家族の秩序を背景とする考えです。
長幼の序(ちょうようのじょ)年長者と年少者の間に順序や礼節を保つこと。年少者が年長者を敬うことを中心に、人間関係の秩序を説きます。
朋友の信(ほうゆうのしん)友人同士が誠実であり、約束を守り、互いの信頼を裏切らないこと。

これらは、当時の身分秩序や家族制度を前提とした教えです。人を思いやることや誠実さなど、現在にも理解しやすい部分がある一方、君主と臣下、夫と妻のあり方は今日の社会制度と同じではありません。歴史の中でどのような関係を理想としたのかを読み取るための説明です。

第一札より――五倫に関する一条を抜粋

原文

一 人たるもの五倫の道を正しくすへき事

現代語訳

人として、親子・君臣・夫婦・年長者と年少者・友人という五つの関係における道徳を、正しく守ること。

切支丹禁止とは――キリスト教の信仰を禁じること

「切支丹(きりしたん)」は、キリスト教徒やキリスト教を指した当時の言葉です。「宗門」は宗教の教えや、その教えを信じる集団を意味します。五榜の掲示の第三札は、江戸幕府以来のキリスト教禁止を、新政府の下でも続けると知らせたものです。外国人を傷つけてはならないという第四札と、日本人のキリスト教信仰を認めないという第三札は、同時に出されました。外国との交際を進めることと、国内の信仰の自由を認めることは、当時まだ同じ方針ではなかったのです。

幕府は、キリスト教の広がりが支配秩序に及ぼす影響などを警戒して禁教を進めました。新政府も当初はその統制を引き継ぎ、信者への取締りを続けます。長崎の浦上では、多くの信者が各地へ送られ、信仰を捨てるよう迫られました。禁教は単なる言葉の上の禁止ではなく、家族の離散や生活の破壊を伴うものでした。

第三札――青森県立郷土館所蔵の文面(本文)

原文

一 きりしたん宗門の儀は堅く御制禁たり若不審なる者有之は其筋之役所へ申出へし御ほうひ下さるへく事

現代語訳

キリスト教は厳しく禁止する。疑わしい者がいたら、担当する役所へ届け出ること。届け出た者には褒美を与える。

第三札には文面の異なる資料があり、ここでは出典に掲載された青森県立郷土館所蔵本を採りました。原文は信仰の禁止だけでなく、疑わしい人を役所へ知らせるよう求めています。

欧米諸国は信者への処罰を批判し、条約改正の交渉でも信教の自由が問題となりました。1873年(明治6年)、政府は禁制の高札を撤去し、浦上の信者たちの帰郷も実現します。ただし、この時点で現代と同じ信教の自由が完成したわけではありません。1889年の帝国憲法では条件付きの信教の自由が定められ、その後も国家と宗教の関係は課題として残りました。

禁制高札撤去の資料:国立公文書館「キリスト教禁止の高札が撤廃される」

ほかの札に出てくる難しい言葉

「徒党(ととう)」は人々が申し合わせて集まること、「強訴(ごうそ)」は集団の力で要求を押し通そうとすること、「逃散(ちょうさん)」は村などを集団で離れて抵抗することです。第二札は、こうした行動を禁じました。第五札の「本国」は主に自分が属する地域・藩を指し、現代の海外旅行の出国禁止と同じ意味ではありません。

浦上の取締りと禁教の経緯:長崎県「大浦天主堂境内」

出典・参考:データベース「世界と日本」・原文資料

大教宣布の詔――国民に共通の教えを広める(1870)

新政府は、天皇を中心とする国家の考え方を人々に広めるため、大教宣布の詔を出しました。「宣布」は広く知らせること、「詔」は天皇の名で示す意思や命令です。ここでいう「大教」は、神々の祭祀や天皇への忠誠をよりどころに国民を教え導こうとする方針でした。

その後、教部省が設けられ、神職や僧侶を教導職という教化の担当者に任命し、敬神愛国、天理人道、皇上奉戴と朝旨遵守の三条を説かせます。しかし神道と仏教の立場は同じではなく、全国の信仰を一つの教えにまとめる試みは困難に直面しました。制度は後年、再編・廃止へ向かいます。

教導職が説いた三条のうち、「敬神愛国」は神を敬い国を愛すること、「天理人道」は天地の道理と人としての道、「皇上奉戴・朝旨遵守」は天皇をいただき政府の方針を守ることです。宗教の教えと国家への協力を一緒に説こうとした点が、この政策の特徴でした。

出典・参考:国立公文書館・公開資料

岩倉使節団(1871〜1873)

岩倉具視を特命全権大使とし、大久保利通・木戸孝允・伊藤博文らが欧米を訪れた使節団です。国交の挨拶、不平等条約を改める準備、政治・産業・教育などの調査を目的としました。留学生も同行し、その中には後に女子教育に尽くす津田梅子がいました。

条約改正を直ちに実現することはできませんでしたが、使節たちは工場、学校、議会などを見て、制度や人材を整える必要を認識します。一方、日本では留守政府が学制や徴兵制などの改革を進めていました。帰国後、外交や改革の優先順位をめぐって対立が起こるなど、欧米体験は国内政治にも影響しました。

出典・参考:国立公文書館・公開資料

学制――全国に学校を設ける構想(1872)

新政府は学制を公布し、地域や身分にかかわらず学ぶ機会を広げようとしました。大学・中学・小学を組み合わせた全国的な学校配置を構想し、学問は立身や生活の向上に役立つものだと説きました。しかし、学校を建てる費用や授業料は地域と家庭の重い負担になりました。

農家などでは子供も働き手であり、学校へ通わせれば家の仕事に支障が出る事情もあります。そのため学校は急速に増えたものの、すべての子供がすぐに通えたわけではありません。学制は近代学校制度の出発点であり、その後の教育令や学校令による修正を経て、就学が少しずつ広がっていきました。

寺子屋など、それ以前の学びの場がなくなった空白に学校が突然生まれたのではありません。すでに各地にあった読み書きの教育、人材、建物なども、新しい学校の設置を支えました。一方、男女や地域による就学の差は大きく、制度上の理想を暮らしの中で実現するには長い時間が必要でした。

出典・参考:国立公文書館・公開資料

徴兵令――武士以外も兵役を負う制度(1873)

政府は武士を中心とした軍事の仕組みを改め、全国から兵士を集める徴兵令を出しました。原則として満20歳の男子を検査し、兵役に就かせる制度です。ただし当初は戸主や家の後継者などに免役があり、代人料を納めて兵役を免れる規定もあったため、すべての男子が等しく入営したわけではありません。

家の働き手を失う不安から反発も起こりました。兵役を「血税」と呼んだ表現が文字どおり血を取られることだと誤解され、騒動につながった地域もあります。政府にとっては、藩の軍隊に代わる国家の軍隊をつくる大きな制度転換でした。

「戸主」は家を代表する者、「免役」は兵役の義務を免れることです。当初の免役規定は、家を維持する事情や身分・経済力による差と関わっていました。その後の改正で免役の範囲は見直されます。最初から今日の印象どおりの「全国民に一律の制度」であったと理解すると、出発点の実情を見誤ります。

出典・参考:国立公文書館・公開資料

地租改正――米の年貢から地価に基づく税へ(1873)

江戸時代の年貢は米などで納めるのが基本でした。地租改正では土地の所有者を確認して地券を交付し、土地の価格を定め、その3%を金銭で納める方式に改めました。政府は収穫量や米価の変動に左右されにくい税収を得ることができます。

一方、土地の所有者は不作でも定められた税を支払う必要があり、農家の負担が重くなる場合もありました。各地で反対運動が起こり、1877年に税率は2.5%へ引き下げられます。土地の私有と売買を近代的に整理する改革でしたが、政府財政の安定と農村の生活の安定が、必ずしも同じ方向に進むものではありませんでした。

地券は、誰がその土地を所有し、どのような価値があるかを示す証書です。税を納めるのは原則として土地所有者でしたが、土地を借りて耕す小作人には、別に地主へ納める小作料の問題がありました。地租の仕組みだけで農村の負担全体を説明できるわけではなく、地主と耕作者の関係も重要です。

出典・参考:国立公文書館・公開資料

西南戦争(1877)

鹿児島の士族らが西郷隆盛を中心に政府軍と戦った、明治初期最大の内戦です。士族とは、維新後に旧武士層に与えられた身分の呼び名です。給与に当たる秩禄の処分や帯刀の禁止などによって生活と立場が変わり、不満が各地に蓄積していました。

西郷軍は熊本城を攻めましたが落とせず、政府軍との戦いで次第に追い詰められ、9月、鹿児島の城山で終局を迎えます。政府の徴兵軍による統治が確立する一方、双方の兵士や地域住民に大きな犠牲が出ました。その後、政府への異議を武力ではなく、議会の開設や政治参加の要求として表す運動が重要になります。

出典・参考:国立公文書館・公開資料

世界の出来事

スエズ運河の開通(1869)

エジプトで地中海と紅海を結ぶスエズ運河が開通しました。ヨーロッパからインドや東アジアへ向かう船は、アフリカ南端を回る長い航路を避けられるようになり、移動時間と輸送費を減らせました。蒸気船の発達とともに、人や商品、郵便の往来が速まり、日本と欧州との距離も時間の上で縮まります。

一方、運河は軍艦や植民地への輸送にも利用できるため、列強が支配を競う戦略上の要地となりました。建設には多くのエジプト人の労働が投入され、財政負担も伴いました。交通の便利さを生んだ技術の成果と、その利益や負担が誰に帰したかを併せて見ることが大切です。

出典・参考:参考資料(www.suezcanal.gov.eg)

普仏戦争とドイツ帝国の成立(1870〜1871)

プロイセンを中心とするドイツ諸国とフランスが戦い、フランスが敗れました。「普仏」の「普」はプロイセン、「仏」はフランスを表します。フランスではナポレオン3世の帝政が倒れ、共和国が成立します。一方、1871年1月、占領下のヴェルサイユ宮殿でプロイセン王を皇帝とするドイツ帝国が宣言されました。

ドイツの統一によってヨーロッパ中央に強力な国家が生まれ、列強の力関係が変わります。敗れたフランスは領土の一部と賠償金を失い、ドイツへの反感が残りました。統一国家の誕生は国内のまとまりを強めると同時に、隣国との長期的な緊張の原因にもなりました。

出典・参考:参考資料(en.chateauversailles.fr)

パリ・コミューン(1871)

普仏戦争で敗れたフランスでは、政府の講和方針や生活の窮乏に不満を持つパリの民衆が立ち上がりました。3月、政府との対立からパリに独自の自治政府が成立します。「コミューン」は自治体を意味する言葉で、この出来事では民衆が市政を担おうとした政治運動を指します。

労働者や職人、女性たちも活動に参加し、教育や労働、宗教と政治の関係などを改める試みが行われました。しかし、ヴェルサイユを拠点とする政府軍がパリへ進撃し、5月の激しい市街戦と弾圧によって終わります。短期間の出来事でしたが、社会の平等と自治を求める運動として、後世の政治思想に大きな影響を残しました。

出典・参考:参考資料(www.paris.fr)

露土戦争とベルリン会議(1877〜1878)

ロシアとオスマン帝国が戦いました。「露」はロシア、「土」は当時トルコと呼ばれたオスマン帝国を表します。バルカン半島では、オスマン帝国の支配から離れようとする民族運動が続き、ロシアは同じ正教会の信徒やスラヴ系の人々を守る立場を掲げて介入しました。

ロシアが勝利しましたが、その勢力拡大をイギリスなどが警戒し、1878年のベルリン会議で講和条件が見直されます。諸国の独立や自治が認められる一方、国境と支配をめぐる不満が残りました。大国同士の均衡を保つ外交と、その土地に暮らす人々の希望が一致しないという問題が表れた出来事です。

出典・参考:ドイツ歴史博物館(ドイツ語)

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