この京都の事は伝説として語りつがれて居るけれども事実である点は高窪良誠談話によって信憑せられるのであります。先生は之を契機として一切世俗の名聞を断って霊学研究の苦難の道に就かれたのであって、この後十余年全くその消息は不明なのであります。その著「難古事記」に記す処に依ると「三十五才にして神懸に三十六法あることを覚悟る」とあって、その年は満年三十四才即ち安政三年(一八五六)に当るのであるから、天保十四年より十四年の歳月を経ています。そして「十八才皇史を拝読し此の神法の今時に廃絶したるを慨歎し」て志を立てた時より実に十八年に亘るものであって、会沢正志の門に於ける刻苦勉励も、その後「岩窟に求め草庵に尋ね」ての苦難の修業も凡てこの準備期間ということになるのでありましょう。そして「夫れより幽冥に正し現事に徴し、古事記日本紀の真奥を知り、古先達の説々悉く皆謬解たるを知り弁へたりき」となるのであります。全集所収の「古事記神理解」と「難古事記」は先人のこの謬解を正すために書かれたものであることを知るのであります。
〔註一〕高窪良誠談話=高窪良誠は大宮市東町に住み、氷川神社氏子総代にして、中大理工学部教授(全集巻末記に日大教授は誤り)たり。夙に佐藤卿彦の門に学び幽斎に参じ多くの神教に接した。昭和四十五年歿。
この後先生は愈々修業を深められ、郷里鹿児島に帰られて帰神の術を磨かれて己に名声を得ていましたが、その証拠として明治三年(四十八才)三島通庸著の石峯神社創建の記事中に、嘱せられて神憑によって不明たりし古来の祭神を識る旨記しているので、当時已に帰神の正法を確立していたと信ぜられるのであります。先生の上京はその翌々五年かと推定せられますが、この年父主蔵死去され家督を相続いたして居ります。