一般財団法人 野萩青少年育成財団
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仏に逢うては仏を殺し-1

2023-05-14 著者:小山一夫

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『シヴァ、ガナパティ、ブラフマーのようなその他の神々が人間の観点から存在します。

(中略)しかし至高の絶対者、真我の観点からは、これらの神々はすべて幻影であり、一つの実在の中に合一されねばなりません。』

ラーマナ・マハーリシ「不滅の意識」

 

私はヨーガを宗教(信仰)と切り離して考えるべきだと思います。

それは本来ヨーガと直接リンクしていないという理由と、恣意的に関連付けるのは好ましくないという判断からです。
 

私自身が無信仰というのが理由のひとつでもありますが、本当は、ヨーガに信仰をリンクさせる事自体が本来好ましくないと考えているためです。


釈迦や達磨が仏像や神像の前で、読経や、マントラや神名のチャンティングをしたでしょうか。
読経、礼拝、信仰に熱心に励むことで見性(悟り)に至ると説いた禅の高僧が歴史上いたでしょうか。


道元も「正法眼蔵弁道話」で、礼拝、焼香、念仏、看経等を不用とし「祇管に打座して身心脱落することを得よ」と述べています。


この道元の「身心脱落」は、まさにヨーガスートラの目指す境地であり、その意図するところを、極めて明確にかつ具体的に表現した素晴らしい句だといえます。
 

ここで道元は、心よりも前に、身の脱落があることを明示しています。

 

つまり、制感までで身の脱落を達成して肉体感覚の消失を得、然る後に、凝念以降で心の作用の止滅をはかるというヨーガスートラそのものの階梯です。


その時、礼拝、焼香、念仏、看経等は邪魔になりこそすれ、何ら助けにはなりません。

 

ですから、道元はその点について「正法眼蔵」の最初に「弁道話」を置き、上記の通り「不用」だと明言しているわけです。


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