2023-10-08 著者:小山一夫
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ラマナマハリシは次の様に語っています。
「ディヤーナは、慎重な精神的な努力をとおして得られるが、
サマーディにおいてはそのような努力は必要ない。」
(「ラマナマハリシの教え」めるくまーる社)
つまり静慮と三昧の間には、かなり大きな隔たりがあるということです。
この「ディヤーナ」は、のちに音写されて禅那となり、その後、禅として独自の発展を遂げます。
凝念とはこのように、一般には心を特定の対象に留めて動かさないことを指しますが、技術的には、いうまでもなく三昧とも静慮とも矛盾するものなのです。
ただ中国で言われているように「陰極まりて陽となり、陽極まりて陰となる」という変化を期待する場合、実はもうひとつ別の力が必要になります。もしも、その力が働くならば、特定の対象に集中していた心(意)は、一瞬にして解き放たれ、後に残った「識」は、次元の壁を越えることができるのです。
20世紀を代表する聖者の一人、ラマナマハリシは、このようにディヤーナとサマーディの違いについて実に明瞭な言葉で説明していますが、私はとても的を射た解説だと思います。なぜなら究極のサマーディに於いては、努力する主体である我はすでに存在しないからです。