2024-11-16 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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唐代、チベットは軍事国家であり、763年には長安を、786年には敦煌を陥落させた。
長安は一時的だったが、敦煌は848年まで支配を続けた。そしてこの敦煌からチベットへ招かれたのがかの摩訶衍禅師だ。
摩訶衍の「不思不観」の禅はチベット全土に広まったが、六波羅蜜などを軽視した彼の思想は、既存のインド仏教系宗団とは相容れなかった。その後両者の争いは激しさを増し、論争を超えて暴力的な対立に及んだが、時の王ティソンデツェンは、摩訶衍の思想を反体制的だとして一時期禁教とした。
その後、インドから大学者として知られるカマラシーラを呼び寄せ、摩訶衍と論争させた。この王の面前で行なわれたインド仏教(中観思想)と中国禅(如来蔵思想)との有名な論争が、かの「サムイェーの宗論」(794年)である。
激しい論戦の末、摩訶衍は敗北を認め(摩訶衍の著書では勝利したとされている)、中国へ追放されたが、彼の影響は少なからずチベットに残された。それが後に、牧象図の導入に繋がったものと考えられる。