2024-11-22 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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無我と非我
仏教の存在論は時代によって変遷している。そのため様々な立場から多くの経典が書かれたわけだが、ここでは原始仏教の目指した境地について考察してみたい。なぜならそこに何か大事な手掛かりがあるような気がするからだ。
無我説と非我説という言葉がある。佛教語大辞典によれば、無我とは「我ならざること。我を有しないこと。われというとらわれを離れること。我でないものを我(アートマン)と見なしてはならないという主張。われという観念、わがものという観念を排除する考え方。アートマンは存在しないこと。霊魂は存在しないこと。」などと説明されているが、これも時代によって違ってくる。他方、非我には「アートマンにあらざるもの」などの意味があげられている。
ここで釈迦に一番近いところ、つまり原始仏教における考え方を検証してみよう。これについては「自我と無我~インド思想と仏教の根本問題」(中村元著)が参考になる。
三宝印に諸法無我という言葉があるが、問題はこの無我だ。経蔵の最古層に於いては、無我説とは”我執の排斥”であった。この解釈は、仏教と近い距離にあったジャイナ教にも見られ、バラモン教の諸説とも、その趣旨に於いて一致していた。
「原始仏教聖典の古層には、『無我』あるいは『アートマンは存在せず』という趣意を標榜している特別の術語或は文句は存在しない。」(以下「自我と無我」)