2024-12-11 著者:小山一夫
原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。
禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
***********************************************

第3章 第一図 尋牛
序
従来不失、何用追尋
由背覚以成疎、在向塵而遂失
家山漸遠、岐路俄差
得失熾然、是非鋒起
従来失せず、何ぞ追(つい)尋(じん)を用いん
背(はい)覚(かく)に由(よ)って以(もっ)て疎(そ)と成り、向(こう)塵(じん)に在(あ)って遂(つい)に失す
家(か)山(ざん)漸(ようや)く遠く、岐(き)路(ろ)俄(にわか)に差(たが)う
得失熾(し)然(ねん)として、是非(ぜひ)鋒(ほう)起(き)す
頌
茫茫撥草去追尋
水闊山遙路更深
力尽神疲無処覓
但聞楓樹晩蝉吟
茫々(ぼうぼう)として草を撥(はら)い去って追尋す
水闊(ひろ)く山遙(はる)かにして路(みち)更に深し
力尽き神(しん)疲れて覓(もと)むるに処(ところ)無し
但(た)だ聞く楓(ふう)樹(じゅ)に晩(ばん)蝉(せん)の吟(ぎん)ずることを
*****************
家(か)山(ざん)漸(ようや)く遠く、岐(き)路(ろ)俄(にわか)に差(たが)う
得失熾(し)然(ねん)として、是非鋒(ほう)起(き)す
熾とは盛んになること。然は、燃えること。岐路とは運命などのわかれ道の意。
焦って求めれば求めるほど”源”から遠ざかり、にわかに道を失う。得失の分別が火のように燃え上り、是非の思いが鋒先のように鋭く起こる。
尋牛は、家山を出るところから始まるのではなく、既に牛も牧童も家山から離れている。次に家山がでてくるのは第六図の騎牛帰家のところだ。家山とは”還るべきところ”、つまり忘牛存人に入りきる一歩手前の禅境に他ならない。そう考えると、家山は無の領域そのものであり、ウパニシャッドで言うところの神我(ブラフマン)(宇宙の最高原理)に相当する。まさに、”どこから来て、どこへ還るのか”に関わる処だ。