2024-12-10 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第一図 尋牛
序
従来不失、何用追尋
由背覚以成疎、在向塵而遂失
家山漸遠、岐路俄差
得失熾然、是非鋒起
従来失せず、何ぞ追(つい)尋(じん)を用いん
背(はい)覚(かく)に由(よ)って以(もっ)て疎(そ)と成り、向(こう)塵(じん)に在(あ)って遂(つい)に失す
家(か)山(ざん)漸(ようや)く遠く、岐(き)路(ろ)俄(にわか)に差(たが)う
得失熾(し)然(ねん)として、是非(ぜひ)鋒(ほう)起(き)す
頌
茫茫撥草去追尋
水闊山遙路更深
力尽神疲無処覓
但聞楓樹晩蝉吟
茫々(ぼうぼう)として草を撥(はら)い去って追尋す
水闊(ひろ)く山遙(はる)かにして路(みち)更に深し
力尽き神(しん)疲れて覓(もと)むるに処(ところ)無し
但(た)だ聞く楓(ふう)樹(じゅ)に晩(ばん)蝉(せん)の吟(ぎん)ずることを
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観照の極意
「向塵に在って遂に失す」だが、向塵とは先にも書いた通り、雑念や妄想に対してもぐら叩きをすることだ。必死になって塵に立ち向かっているから、大事な気づきを失する。
私達は幼い頃から”集中しろ”、”早く結果を出せ“等(など)と教育されてきた。それは社会生活の中ではある部分役立つこともあるだろう。だが、こと坐禅や瞑想の世界では弊害にしかならない。
ヘッセは言う。
「静かな心で、開かれた待つ魂で、執着を持たず、願いを持たず、判断を持たず、意見を持たず聞き入ること」(「シッダールタ」)
まさに、ひと言一言が心に染み渡る至言だ。
よく皆さんに、”これこそ観照への極意だ”と申し上げているが、これは真の瞑想の要件として、背覚向塵に陥(おちい)らないためにも、心に留めておくべき言葉だと思う。
瞑想とは、単なる想念遊戯ではない。先賢の智慧を学びながら、より深みへと達することが望まれる。いつも思うのだが、言葉の使い方は異なれども、真理に到達した方々の言には似通った志と風格を感じる。安岡正篤先生に言わせれば、「達人のいうこと、真理を学んだ人のいうことは古今東西、みな一如である。」(「知命と立命」)ということになるのだろうが。
『瞑想は言葉の終わったところからはじまる。思考の器である言葉によっては沈黙は生まれない。沈黙から湧き上がる行為は言葉から生まれる行為とは全く異質である。瞑想とはあらゆる表象やイメージ、記憶から、精神を自由にすることである。』(「クリシュナムルティの瞑想録」)