2024-12-09 著者:小山一夫
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禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第一図 尋牛
序
従来不失、何用追尋
由背覚以成疎、在向塵而遂失
家山漸遠、岐路俄差
得失熾然、是非鋒起
従来失せず、何ぞ追(つい)尋(じん)を用いん
背(はい)覚(かく)に由(よ)って以(もっ)て疎(そ)と成り、向(こう)塵(じん)に在(あ)って遂(つい)に失す
家(か)山(ざん)漸(ようや)く遠く、岐(き)路(ろ)俄(にわか)に差(たが)う
得失熾(し)然(ねん)として、是非(ぜひ)鋒(ほう)起(き)す
頌
茫茫撥草去追尋
水闊山遙路更深
力尽神疲無処覓
但聞楓樹晩蝉吟
茫々(ぼうぼう)として草を撥(はら)い去って追尋す
水闊(ひろ)く山遙(はる)かにして路(みち)更に深し
力尽き神(しん)疲れて覓(もと)むるに処(ところ)無し
但(た)だ聞く楓(ふう)樹(じゅ)に晩(ばん)蝉(せん)の吟(ぎん)ずることを
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「観」には、観想、観察、そして観照がある。
それぞれの意味の違いを自ら体験することによって、観照の持つ大いなる力を理解すべきだ。観想や観察には作為が伴うが、観照は無為の領域に於いて起こる。
宗教も結構だが、まさに宗教の要求する信仰がこの観照を妨げてしまうことを知るべきだ。信仰を捨てなければ悟れない、という釈迦の真意もそこにある。
『見るためには、あなたは一切の権威や伝統や恐怖、あるいは狡猾な言葉に満ちた思考から自由でなければならない。真理はどこか遠くにあるのではなく、あるがままの現実を見きわめることにある。あるがままの己れの姿を曇りなく、あれこれの判断を何らさしはさむことなく見ることこそは、一切の探求の始まりであり同時に終わりである。』(「クリシュナムルティの瞑想録」)