一般財団法人 野萩青少年育成財団
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禅の十牛図 考-56

2024-12-07 著者:小山一夫

原文保存・内容校閲前/画像は元サイトから読み込みます。

禅の十牛図について技術的な側面から解説します。
(「悟りに至る十牛図瞑想法」より)
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第3章 第一図 尋牛


序
従来不失、何用追尋
由背覚以成疎、在向塵而遂失
家山漸遠、岐路俄差 
得失熾然、是非鋒起

従来失せず、何ぞ追(つい)尋(じん)を用いん
背(はい)覚(かく)に由(よ)って以(もっ)て疎(そ)と成り、向(こう)塵(じん)に在(あ)って遂(つい)に失す
家(か)山(ざん)漸(ようや)く遠く、岐(き)路(ろ)俄(にわか)に差(たが)う
得失熾(し)然(ねん)として、是非(ぜひ)鋒(ほう)起(き)す

頌
茫茫撥草去追尋
水闊山遙路更深
力尽神疲無処覓
但聞楓樹晩蝉吟

茫々(ぼうぼう)として草を撥(はら)い去って追尋す
水闊(ひろ)く山遙(はる)かにして路(みち)更に深し
力尽き神(しん)疲れて覓(もと)むるに処(ところ)無し
但(た)だ聞く楓(ふう)樹(じゅ)に晩(ばん)蝉(せん)の吟(ぎん)ずることを

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背(はい)覚(かく)に由(よ)って以て疎(そ)と成り、向(こう)塵(じん)に在って遂に失す


背覚によって隔(へだ)たりが生じ、向塵にあって見失ってしまう。


尋牛のところで一番大事なのはここだ。背覚向塵がわからないと、この旅はスタートできない。首楞厳経にも「衆生迷悶、背覚合塵」とあるが、なぜ背覚と合塵が迷悶の原因になるのだろう?


そこでまず「覚」について考察したい。覚には”直観、直覚、感受、目覚める、さとり、体得する、知らないことに気付く”などの意味がある。背覚とは、その覚に背を向けることだ。似たような言葉に「不覚」があるが、不覚と背覚では全く意味が異なる。「不」とは、単に下の言葉を打ち消す否定詞にすぎない。”不覚にも失敗した”と言えば故意(・・)ではないが、背覚は違う。自らの意思で背を向ける、背(そむ)けるわけだ。悟りを求めながら何故”気付き”に背を向けるのか?自分で自分の邪魔をしているわけだが、一体どういうことなのだろう。それは先入観や既成概念、信仰、特定の教義への固執などが、大きな壁となってしまうのだ。そういったものに囚われてがんじがらめになっていると、気付きの機会を自ら閉ざしてしまうことになる。


「背覚に由って以て疎と成り」とは、”覚に背を向けしまうと、求めるほどに離れてゆく”という意味だ。これについては、ヘルマン・ヘッセの「シッダールタ」が参考になるだろう。
 


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